2018年04月28日
西村あさひ法律事務所
浅岡 義之
伝統的な価格調整の枠組みは、何らかの指標に注目して上記の2時点間における対象会社の価値の変化を買収価格に反映するという方式をとるが、これはM&A取引に関与する者にとって頭痛の種になることが多い。時間や手間がかかる上に、予測可能性が低く、後でもめやすいためである。そこで、最近では、価格調整をしないという選択肢が、前提となる考え方を変えた形で見直されつつある。これが「ロックト・ボックス方式(locked-box mechanism)」とよばれるものであり、英国など欧州におけるM&A取引では近時一般的なものとなりつつある(英国をはじめとした欧州のM&A案件、とりわけPEファンドが売主の場合に多く見られるといわれている)。そこで、本稿では、伝統的な価格調整の問題点を一通りおさらいした上で、このロックト・ボックス方式について紹介することとしたい。
上記のとおり、伝統的な価格調整方式においては、①取引の合意(ないし、それに先立つ価格の評価時点。以下「基準時点」という)から②取引のクロージング時点(ないし、それに近接した時点。以下「調整時点」という)までの対象会社の価値の変化に着目し、その際の指標として、各時点のスナップショットとなる貸借対照表(以下「B/S」という)上の科目が用いられることが多いため、かかる調整方式は、一般に、クロージング調整やB/S調整などと呼ばれる(英文ではclosing/completion accountsなどといわれる)。そして、このB/Sベースでの買収価格調整は、細かく見ると、さらに、①有利子負債と現金残高に着目するネット・デット調整、②流動資産と流動負債に着目する運転資本調整、③B/S全体を調整の対象とする純資産調整の3種に分けられる。このような伝統的な価格調整方式は、対象会社の価値の評価手法にかかわらず妥当することが多く、また、財務的な知見のある者にとっては直感的に理解しやすいので魅力的である。M&A取引において、このB/Sベースでの買収価格調整が伝統的に受け入れられてきた理由も上記の点にあると思われる。
しかしながら、現実には、買収価格調整の定めが、当事者にとって事後的に頭痛の種になる場合もある。たとえば、一口にB/S を作成するといっても、会計基準の適用には一定の自由度がある。たとえば、IFRS(国際財務報告基準)にしても、その細かな内容には国や地域によって差があるので、「一般に公正妥当と認められる会計基準」などといっても、その具体的な内容は必ずしも一義的に特定できないことが多い。そこで、たとえば、基準時点における対象会社のB/S作成に用いられた会計基準や対象会社が過去に適用してきた会計基準を用いることも考えられるが、前例のない新しい取引が出てきた場合には対処できないし、調整時点が期中になる場合や事業の切り出し(カーブアウト)案件の場合には、それに応じた例外的な処理が必要となることも多い。このような事態に対処するため、調整項目ごとの会計処理を個別にM&A契約において明確化することもあるが、必要な会計処理を全て網羅することは、現実的にはかなり難しい。
また、調整項目についても、一義的で過不足のない定義を定めることは必ずしも容易ではない。たとえば、上記①のネット・デット調整においては、借入金のような有利子負債だけではなく、株式価値評価の観点から有利子負債に準じて取り扱うべきもの(買収取引に起因して発生する対象会社の債務等が典型的であり、負債類似項目(debt-like items)と呼ばれる)も調整項目に含められることが多いが、具体的に何が負債類似項目に含まれるかは全く自明ではないし、それに何が含められるべきかは、多くの場合、株式価値評価の考え方や交渉によって定まる。また、買収取引の交渉時点では全く想定されていなかったような負債類似項目が調整時点までに生じることも、現実にはしばしばある(このような場合、表明保証や誓約事項の違反も問題となることがある)。さらに、M&A取引の交渉の過程では、調整時点までに起こり得る事態を想定し、調整の対象としてどの項目を含めるべきかが交渉されることになるが、時間的な制約のあるM&A取引の交渉においては、その決定はどうしても経験則に頼る部分が多くならざるを得ず、また、たまたま交渉の俎上に載った特定の論点に議論が集中することもあるといったバイアスが生じやすい(前者はヒューリスティック、後者はアンカリングとよばれる)。さらに、そもそも契約のドラフトや交渉に関与する者が、多くの場合、直接、買収対価の価値評価や交渉に携わっているわけではなく、必要となる情報のインプット面で限界があるという問題もある。
このように、経験豊富な担当者によってドラフトされ、交渉された価格調整の定めであっても、事後的に問題が生じることはまれではない。経済学的にいえば、契約の不完備性が生じやすいのである。契約の不完備性は、そのために有利になる当事者に機会主義的な行動をとる余地を許すものであるから、(それを見越して)事前の合意が困難となったり、また、事後に紛争の原因となったりする。
さらに、論理的に当然のことではあるが、クロージング調整は、調整時点を過ぎなければ行うことができない。そのため、クロージング調整は、必然的にクロージング直前又はクロージング後の一定期間で行われることになるが、時間的な制約の中で、上記のように不完備性のある定めを適用して調整に必要な係数を確定していくことは実務上容易ではないし、コストがかかることも多い。また、クロージング調整につき、買主がイニシアチブを有する場合、対象会社の経理実務に不慣れであることが制約となることもあるし、売主がイニシアチブを有する場合、クロージングによって対象会社の支配を失った後では価格調整に必要な情報へのアクセスに限界があることもある。加えて、価格調整の金額については、特別な確定手段が定められることが多いが(見解の不一致のある調整項目につき、会計・財務の専門家たる第三者が介在する確定手続が採用されることが一般的である)、そのような合意があっても、裁判所において事後的に争われる事態を完全に防ぐことはできないし、また、裁判所の判断について予見可能性が高いとも言い難い。価格調整の金額を確定するための手続に関する当事者の合意は、法的には、仲裁鑑定契約と呼ばれるもの(権利又は法律関係の存否の前提となる事実関係につき第三者に鑑定させ、当該第三者による鑑定結果に服する旨の合意)に該当し、裁判所の判断が鑑定結果に何らかのかたちで拘束されるか否かが問題となる(なお、仲裁契約ではないから、かかる価格調整の金額確定手続に関する合意に妨訴効果はない)が、たとえば、調整に当たって適用されるべき会計基準の特定や調整項目の定義の解釈といった価格調整条項の解釈にわたる鑑定結果についてまで裁判所が拘束されるか否かや、かかる確定手続の不存在又は違反があった場合に裁判所がどのような判断をすべきかといった点については、実務上も争いがある(なお、適用されるべき会計基準の特定との関係では仲裁鑑定契約該当性を否定しつつ、合意された価格調整の金額確定手続の違反につき債務不履行責任を認めた裁判例として、東京地判平成20年12月17日判タ1287号168頁〔アプラス事件〕がある)。
最後に、価格調整の弱点として、価格を事後的に「調整する」ということ自体に問題点が伏在することも挙げておかねばならない。つまり、事後的に価格を調整するという合意自体が、最終的な対価の額についての当事者の予測可能性を損なっているという問題点である。たとえば、売主が対象会社の売却にあたって競争入札(オークション)のプロセスを採用している場合を考えると、複数の潜在的買主が提案する調整項目やその定義が区々であれば、当然、それら買主によるそれぞれの買収提案の比較可能性は低くなる。少なくとも提案価格の額面だけではそれら各買収提案の優劣を決めることはできないし、価格調整を加味した場合に一体どの買収提案が売主にとって最も有利であるかを判定することも難しい場合がある。また、価格調整の結果、最終的に、当初合意された買収価格よりも価格が増額されることになれば、買主側では買収資金の調達が難しいといった事態に陥る可能性があるし、買収価格が減額されることになれば、売主側では予定していたキャッシュが得られず、その事業遂行(継続)に支障が生じる事態も起こり得る。そのため、価格調整によって想定外の価格の増減が生じることを避けるべく、調整金額の幅の制限(collar)が定められたり、余剰資金の債務弁済等への強制充当(cash sweep)が定められたりする場合もあるが、調整時点までにおける対象会社の価値の変化に関する不確実性が高いような場合には、このようなメカニズムを常に合意できるとも限らない。
伝統的な価格調整に上記のような問題があるのであれば、いっそのこと価格調整など行わず、合意時点で買収価格を固定してしまえばよいという考えも生じ得るが、このように考えることは、やや短絡的との誹りを免れない。なぜなら、公正価値(fair value)に従った譲渡の要請が強い(すなわち、価格調整の必要性が高い)大型案件ほど、競争法のクリアランスや許認可等の取得、買収に必要な対象会社の取引先からの同意の取得、紛争の解決等につき不確実性が高く、また、基準時点から調整時点までの期間が長期化する(場合によっては年単位となる)傾向にあるからである。このような長期間における不確実性を一切捨象してしまうことのデメリット(すなわち、それによる機会主義的行動誘発のリスク)を考えれば、事後的にいくら頭痛の種になりやすくとも、なお価格調整条項を定めておく方が賢明であることは多いように思われる。
もっとも、視点を変えて考えた場合には、異なった考え方が出てくる余地がある。そもそも、買収価格の調整が必要とされるのは、M&A取引において買収価格が合意される時点と買主が実際に対象会社の価値を取得する時点との間にタイムラグがあるためである。このタイムラグを物理的に短縮することは不可能であるが、観念的な意味で、かかるタイムラグをなくすことはできる。これがロックト・ボックス方式という考え方である。
ロックト・ボックス方式とは、対象会社の経済的な支配権の帰属の変更(売主→買主への変更)を、クロージング時点ではなく、基準日において観念的に認識するという考え方である。ここにいう基準日の考え方は、前述したB/Sベースでの買収価格調整におけるクロージング調整の場合と同じであり、M&A契約の締結日に最も近接する監査済財務諸表の基準日とされることが多い(以下、ロックト・ボックス方式における基準日のことを「ロックト・ボックス日」といい、ロックト・ボックス日における貸借対照表を「ロックト・ボックスB/S」という)。ロックト・ボックス方式においては、その上で、ロックト・ボックス日以降における対象会社の事業運営により創出される価値(及びリスク)は、売主ではなく、買主に帰属するものとして取り扱われる。このコンセプトにより、M&A契約締結日からクロージング日までの間に生じ得る買収対価と対象会社の価値の乖離を考慮する必要はなくなることになる(買主側では、M&A契約締結日以降における対象会社の価値の変化は、クロージング日後における対象会社の価値の変化と同様に考えればよいことになる)し、買収対価の額についての当事者における予測可能性も高まる。
しかし、ロックト・ボックス方式を採用するM&A契約においては、上記のコンセプトを維持するために、いくつかの配慮が必要となる。
(1) リーケージ
(a) リーケージの禁止
ロックト・ボックス方式では、その名のとおり、ロックト・ボックス日において対象会社の価値が「ロック」され、その後に対象会社が生み出す価値(及びリスク)は、経済的に買主に帰属するものと取り扱われる。そのため、ロックト・ボックス日からクロージングまでの期間(以下「ロックト・ボックス期間」という)において、対象会社から売主やその関係者(以下「売主等」という)に価値が流出してしまうことを防ぐ必要がある。このような価値の流出のことをリーケージ(leakage)と呼ぶが、上記の考慮から、ロックト・ボックス方式を採用するM&A契約においては、M&A契約締結日からクロージング日までの期間における対象会社の運営に関するコベナンツ(誓約事項)に加えて、売主の誓約事項としてリーケージの禁止が規定される(かかる誓約は、no-leakage covenantsと呼ばれる)。また、ロックト・ボックス期間におけるリーケージが存在しないことにつき、売主の表明保証が定められることもある。
リーケージの態様としては、①配当、②自己株式取得といった直接的なものから、③マネジメント・フィーやモニタリング・フィーの支払、④債権の放棄、債務の引受け、⑤債務の期限前弁済、⑥低廉価格による対象会社の資産処分、過大な価格での資産の取得その他の独立当事者間取引条件によらない取引、⑦対象会社の役職員に対する過大な報酬等といった間接的なものまで、様々な対象会社の行為によるものが考えられる。また、⑧M&A取引の成立を条件とするボーナス等の支払や⑧取引費用の支払といった、M&A取引自体に関連する行為も、売主等の側に価値を移転させる行為としてリーケージに該当し得るし、上記①~⑧のような行為に関連して対象会社に生じる租税債務の支払いもリーケージとなり得る。
これらから明らかなとおり、リーケージの定義は、必ずしもクロージング調整のようにB/S科目によったり、会計基準に準拠したりして定められるわけではないため、M&A契約に馴染みやすい。なお、一般論としては、買主は、態様にかかわらず、リーケージが広くカバーされるよう包括的なリーケージの定義を好み、売主は、逆に、抽象的な定めによりリーケージの範囲が不明確になることを避けるため、限定的な定義を好む。
(b) 許容されるリーケージ
リーケージに該当しても、それが買収価格の算定において既に考慮されていたり、買主の承諾を得て行われる限り、必ずしも禁止される必要はない。そのため、リーケージを定義するに際しては、同時に、許容されるリーケージ(permitted leakage)が定義されることもある。許容されるリーケージとされるものは、案件ごとに個別性が高く、個別に上限額等が設定されたり、前提となる契約関係等につき開示や表明保証が求められたりすることも多いが、許容されるリーケージとして定められることが多いものとしては、①ロックト・ボックスB/Sに計上された債務の支払い、②買収価格の算定において評価された負債類似項目の支払い、③売主等からの借入れに対する利息の支払い、④過去と同等の水準で支払われる対象会社の役職員に対する報酬等の支払い、⑤上記①~④のような行為に関して対象会社に生じる租税債務の支払い等が挙げられる。
(c) リーケージ禁止違反に対する救済
リーケージの禁止に関する定めは、クロージングを前提として基準日(ロックト・ボックス日)以降における対象会社からの価値の流出を防止するためのものであるから、それに違反して行われたリーケージに対する救済は、クロージングを条件として、対象会社から流出した価値の補償とされることが多い(売主側の認識するリーケージにつき、クロージング前に売主から買主に対する報告を求め、クロージング時に支払われる買収対価の額から売主が報告したリーケージの額を控除することによって、クロージング後に売主から買主に対して補償すべき金額を減らす仕組みが規定されることもある)。
リーケージについては、該当する行為に関連して対象会社や売主等に課税や取引コストが生じ得るので、売主等が実際にリーケージによって受領する価値は対象会社から流出した価値を下回ることが多いが、買主としては、対象会社から流出した価値全額の完全な補償を求めることになる。また、リーケージ禁止違反に対する救済としての補償については、その性質上、表明保証違反に対する救済としての補償とは異なり、補償の金額の下限や上限も定められないことが多い。
他方、リーケージ禁止違反に対する救済としての補償についても、期間制限は設けられることが多い。この期間制限は、買主においてリーケージの有無の確認に要する期間(たとえばクロージング後の決算に要する期間)を念頭に設定されるが、価格についてのもめ事を引きずらないというロックト・ボックス方式の背景にある基本的なコンセプトのためか、表明保証違反に対する補償請求の期間制限よりは短く設定されることが多いようである。
(2) 買収対価の額に対する利息(売主の機会費用の補償)
ロックト・ボックス方式は、基準日(ロックト・ボックス日)において対象会社の価値の経済的な帰属を観念的に売主から買主に移転させるという考え方に基づくものであるが、買収対価の支払自体はロックト・ボックス日に行われるわけではなく、売主としては、クロージング日まで待たなければ買収対価は受領できない。他方、前記(1)で述べたとおり、対象会社から売主等への価値の流出(リーケージ)が制限されるため、売主としては、対象会社の価値の経済的な帰属が観念的に買主側に移転しているにもかかわらず、ロックト・ボックス期間中、(クロージング日に受け取るべき)買収対価を運用できない一方で、対象会社が生み出す価値を受領することもできない。
そのため、ロックト・ボックス方式が採用されている場合、売主側としては、ロックト・ボックス期間における売主の買収対価に関する運用機会の喪失に対応する機会費用の補償として、買収対価の額に対して一定の「利息」の支払いを求めることがある。わが国では、このような「利息」の利率(又は一日あたりの金額)について確立した実務はないが(欧州においては、年率ベースで3~10%程度の利率が定められることが多いといわれる)、売主の買収対価に関する運用機会の喪失に対応する機会費用の補償という趣旨に照らして、売主における想定運用利回りや対象会社の想定利益率(又は一日当たりの利益額)が考慮されることが多い。なお、この「利息」の支払いは、クロージングを条件として、クロージング時において買収対価の支払いと併せて行われることが多い。
なお、この買収対価の額に対する「利息」の支払いは、間接的に、買主に対して早期のクロージングを促すインセンティブともなる。もっとも、クロージングまでの期間は、競争法上の待機期間など、買主の努力によっては短期化できない部分もあるため、そのような期間を除いて上記の「利息」の発生期間を定めることも多い。
本稿では、伝統的な価格調整に関する問題点を概観した上で、これへの対案として登場してきたロックト・ボックス方式について紹介した。ロックト・ボックス方式は、その性質上、クロージングまでの期間(すなわち、観念的な価値移転の時期と現実的な支配権の移転時期とのずれ)が長期間にわた
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