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環境法の考えかた 各国学生と議論する汚染者負担原則

六車 明

環境法の考えかた
 ― LL.Mの教室から

弁護士 六 車  明

1 汚染者負担原則から子供の教育まで

六車 明(ろくしゃ・あきら)
 1952年東京生まれ。1975年慶應義塾大学法学部卒。同年司法試験合格。2年の司法修習(東京)の後、1978年裁判官。東京地裁、高松家裁、法務省刑事局付検事(労働刑法)、東京地裁、仙台地裁、東京高裁、公害等調整委員会審査官。1999年退職。同年慶應義塾大学環境法専任教員。法学部、法科大学院、LL.Mをへて2018年65歳で定年退職。同年4月慶應義塾大学名誉教授。同大学非常勤講師。2014年1月、弁護士登録。
 この4月から7月にかけての春学期、わたしは、アメリカ人女性弁護士とともに、非常勤講師として、慶應義塾大学法科大学院のLL.Mコースで、「環境問題を中心とした地球規模の災害」という授業を担当している。LL.Mの授業は、すべて英語でおこなわれる。履修者は9名である。

 学生は、授業の2日前までに、環境あるいは災害に関するテーマを自由に選び、英語で500ワードのエッセイを作成して各教員にメール添付でおくる。授業当日は、はじめに、全部のエッセイをプリントアウトしたものと参考資料を全員に配布したうえ、順番に学生が自分のエッセイについて口頭で発表し、その後全員で議論をする。

 テーマに選ばれるのは、地球温暖化を原因とする様々な災害、各種廃棄物の国際移動により起きている現実とその政治的、社会的背景、マイクロプラスチックによる海洋汚染と国際的規制、化学工場の大規模爆発と訴訟対応、巨大地震、津波、原発事故の被害とその回復などである。

 さまざまな議論において必ずといっていいほど言及されるのが、Polluter Pays Principle(汚染者負担原則)である。地球規模の環境汚染において、汚染者とはだれなのか。予防や回復費用をだれが負担すべきなのか。

 関係者をあげると、たとえば、原料の採取から製造、流通、小売に関係する法人、そのCEO、取締役、労働者、労働組合、さらに製品を購入した消費者がする製品の使用、廃棄、廃棄された物の収集、処理、国外輸出、他国の輸入者、輸入廃棄物の処理業者、その処理に従事する労働者、その労働者を使用する企業、この企業が国境を超えて支配をしている場合は、その関連企業、それらの企業の大口株主としての巨大ファンド、株主総会におけるファンドの投票行動のアドヴァイスをする組織、国際的なNGOなどである。

 汚染者はだれか、負担すべきものはだれか、ということを考えることは、負担すべきなのに負担していないものはだれか、つまり、フリーライドしているものはだれかということを考えるのと同じである。そこで、情報の公開、情報へのアクセスの容易さということが問題となる。フリーライドしても誰もそのことを知らなければ、汚染防止費用を負担するインセンティブが働かない。ここでいう情報は、環境にかぎらない。むしろ、会計情報、財務情報などから手がかりを得られることのほうが多い。

 企業が汚染防止費用を払わなければ、ほかの誰かが払うことになる。もし、その費用を税金から払うとしたら、税金を納めている個人や企業の負担で、フリーライドをしている企業が利益をあげていることになる。これは、タックスヘイブンとおなじく、税を免れることにより利益をあげている。汚染の被害者である一般の市民の支払う税がそのまま企業の利益となり、それが、CEOの報酬、取締役の報酬、労働者の賃金、そして株主に対する配当にまわっているということになる。すでに、そのような体制はかなり固くできあがっているであろう。これを変えていこうというのは、かなり大変なことである。

 このように議論が行き詰まったとき、自然に話題になるのが教育のことである。幼いころから、環境や将来の社会のことを考えることができるところにいないと、今の大人と同じことになるのではないか。子供のまわりにいる大人がどのように考えているのか、ということが大切である。生い立ちがちがう学生の議論がそのような方向の結論になる。

2 教室における学生

授業風景
 世界各国からの留学生や日本人学生の率直で活発な議論は、毎回、目から鱗という言葉そのものの連続である。

 学生の出身大学、年齢、性別、職歴はじつにさまざまである。LL.Mコース全体の定員は30名で、ほぼ満たされている。設立されたばかりのこの日本のLL.Mコースになぜ入学し、自国や欧米のLL.Mになぜ進まなかったかという理由はさまざまである。それぞれの学生が自分の考える将来のキャリアにとってふさわしい、と考えていることはまちがいないが、学校の規模が小さく少人数で学べるという利点を挙げる学生もいる。

 LL.Mの教室には、正規の学生のほかに、2つのグループの学生がいる。そのうちの1つが、ロースクールが交換留学協定を結んでいる他国のロースクールの学生である。もう1つが、一般のロースクール生である。英語ができれば、単位互換となっている。環境法であれば、LL.Mの英語の授業で学んでも、普通のロースクールの日本語の授業で学んでもよい。

 環境法という分野は、一般の法学の分野とくらべると、女性にとって学ぼうとする動機が強いようにおもう。現在のクラス9名のうち、7名が女性である。昨年秋に担当したクラスも、まったく同じで、9名中7名が女性であった。それだけでは一般化できないが、19年間の教員生活をふりかえると、環境法を専門とするわたしが担当した法学部生、ロースクール生においても、女性の比率がおおかったとおもう。

 そこにはさまざまな要因が考えられるが、これまでの授業をふりかえってみると、女性は子どもをみずから産んでそだてるということをするので、食べ物の安全や、生活の環境、さらに、じぶんが産んだこどもが将来もずっと健やかに育ち、いきていけるようになるとよい、ということを男より強くおもうということがあるのではないかと思っている。

 また、国家、国際的企業などの、市場における経済活動は、労働力のダンピングができるところ、廃棄物を捨てやすいところでおこなわれやすいということを、女性は感じやすい。地球規模で環境を破壊する企業の経営者には男が多い。さらに、自分の子どもが人身売買の対象になり、子どものときから強制労働させられ、あるいは幼い娘が強制結婚させられる社会にいる母の気持ちを思うことができる。そうした背景があるのではないかと感じる。

 LL.Mは、1年生の法律専門の修士課程であるから、学生は、学部レベルの法学の勉強を終えている。ただ、法学を学んだ国はさまざまであり、なかには、自国の大学ではなく、留学先の大学で法学を学び、さらに、日本に留学している学生もいる。

 したがって、学生は、自国の司法制度の概要について説明することができる。また、授業が進むにつれて、自国の制度を学び直すということもある。そのように、法学をひととおり学んでいるということは、環境法を学ぶにあたってとても有益である。

 環境問題が紛争になると、裁判のことを考えるが、日本の裁判所は一つの流れのみであるが、そのような国は少ないかもしれない。日本の裁判所にあたる通常裁判所のほかに、憲法裁判所、行政裁判所、軍法会議などをもつ国は、すくなくない。日本にも、大日本帝国憲法下では、行政裁判所と軍法会議はあった。だから、学生は、環境紛争の解決のことを話そうとすれば、まず、自国の司法制度のことを簡潔に紹介する必要がある。地球規模の環境問題では、どこの国あるいは地域にある、いかなる裁判所で、どの国の法律を適用するか、ということがつねに問題となる。

 そのような制度的なことを簡潔に説明できることが環境法の授業の前提となるのである。

3 実務家の経験と環境法

教壇に立つ筆者
 わたしは、法律実務家を21年経験したあと大学の教員に転じ、19年を経てこの春65歳で定年退
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