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国が提出した証拠を「虚偽」と断じた医師が内部告発者として登場

金沢大学病院「同意なき臨床試験」(3)

出河 雅彦

 より有効な病気の治療法を開発するために人の体を使って行う臨床研究は被験者の保護とデータの信頼性確保が欠かせないが、日本では近年明らかになったディオバン事件にみられるように、臨床研究をめぐる不祥事が絶えない。この連載第1部では、生命倫理研究者の橳島次郎氏と朝日新聞の出河雅彦記者の対談を通して、「医療と研究をきちんと区別する」という、現代の医学倫理の根本が日本に根づいていないことを、不祥事続発の背景事情として指摘した。第2部では、患者の人権軽視が問題になった具体的な事例を検証する。愛知県がんセンターの「治験プロトコールに違反した抗がん剤投与」に続くその第2弾として取り上げるのは、金沢大学病院で行われた抗がん剤の臨床試験で説明を受けないまま被験者にされた女性の遺族が国に損害賠償を求めた「同意なき臨床試験訴訟」である。この訴訟では、愛知県がんセンター抗がん剤治験訴訟のように新薬の治験ではなく、薬事承認を受け、保険診療が認められていた薬を用いた臨床試験におけるインフォームド・コンセントのあり方が問われた。第3回では、原告、被告双方が内容の異なる「症例登録票」を証拠として提出し、女性が臨床試験の被験者となっていたか否かをめぐって鋭く対立するまでの経緯をたどる。

 提訴から8カ月後の2000年2月25日付で被告・国の側は「北陸GOG卵巣癌症例登録票」と主治医のA医師の陳述書を証拠として金沢地裁に提出した。その内容を見て、原告側はとても驚いた。すでに原告側が入手していた「北陸GOG卵巣癌症例登録票」とは異なる内容だったからだ。二つの症例登録票は、書式はほぼ同じながら、正反対の内容が記載されていた。

 登録票には次のような記載項目があった。

 1. 登録日
 2. 施設名
 3. 担当医師名
 4. 患者イニシャル
 5. 診断名(卵巣癌)
 5-2.臨床進行期 Ⅱ期以上
 6. 生年月日
 7. 年齢
 8. Performance Status(PS)
 9. 骨髄機能
 10. 肝・腎機能
 11. 少なくとも2コース以上の化学療法が可能である
 12. 手術日
 13. 化学療法開始予定日
 14. 手術後の残存腫瘍径

被告側が提出した症例登録票。「当症例は選択基準を満たしていません」にチェックが入っている。
 二つの症例登録票を比べると、登録日はいずれも「1998年1月19日」で同じ、施設名は被告側提出の登録票が「金沢大」、原告側の手元にあった登録票が「金沢大学」と記されていた。担当医師名は、被告側の登録票がA医師の名字のみ漢字で書かれ、原告側の登録票はA医師のフルネームが漢字で書かれていた。患者イニシャルはともに「TK」とKさんのイニシャルが書かれていたが、原告側の登録票にはイニシャルのあとに括弧付きでKさんの名字が漢字で記載されていた。

原告側が提出した症例登録票。「当症例は選択基準を満たしています」にチェックが入り、「症例番号」も付けられている。
 5(被告側の症例登録票では「5-1」と記載)の診断名から11の化学療法の2コース実施が可能か否かまでは、生年月日、年齢、PSを除いて「YES」か「NO」にチェックを入れることになっていた。これら二者択一の項目は、二つの登録票ともすべて「YES」が選択されていた。生年月日と年齢はともに記載がなく、「3以下」であることが条件で、「0」~「3」の四つから選ぶことになっていたPSは、被告側の登録票では「2」にチェックが入れられ、原告側の登録票では「3」にチェックが入っていた。

 12の手術日は、被告側の登録票で「1997年12月18日」、原告側の登録票で「1997年12月」と記載されていた。13の化学療法開始予定日は双方とも「1998年1月20日」で、14の手術後の残存腫瘍径はともに「2cm以下」が選択されていた。

 以上の15項目について二つの登録票の記載内容に大きな違いはなかった。

 しかし、選択条件を満たしているかどうかにチェックを入れる、最後の項目は正反対の内容になっていた。

 被告側の登録票では「当症例は選択条件を満たしていません」にチェックが入れられ、その下に「(origin 不明) Double Ca?」と手書きによる記載があったのに対し、原告側の登録票では「当症例は選択条件を満たしています」にチェックが入れられ、その下の「症例番号」に手書きで「B-220」と書かれていたのである。被告側が提出したプロトコール記載の「登録方法」によれば、対象症例とした場合は投与予定直前に登録事務局に「電話またはFAXにより治療法をArm A(PAC)か Arm B(PC)かの指示を受ける」となっていた。AがCAP療法、BがCP療法を意味しているので、KさんはB、すなわちCP療法に振り分けられたことを示すものといえる。

 さらに、登録票の一番下の「症例登録先」の記載内容が大きく異なっていた。

 被告側の登録票では、「金沢大学 産婦人科」とされ、「0762」の市外局番で始まるFAX番号が記されており、受付時間が「AM9:00~PM5:00(Mon~Fri)」となっていた。これに対し原告側の登録票では登録先の組織名は記されておらず、「0120」で始まるFAX番号のみが記載されていた。また、受付時間は「24時間」で、その横に「回答 9時~17時(月~金)」と記されていた。

 では、被告側が症例登録票と一緒に証拠として提出したA医師の陳述書はどのような内容だったのだろうか。

 患者が説明を受けないまま臨床試験の被験者にされたか否かが最大の争点になったこの訴訟において、被告側の言い分を知るうえで極めて重要な書面なので、以下にその全文を紹介する(「氏」をつけて実名で記載されている患者名は便宜上「Kさん」と改める)。

 私はKさんが金沢大学産婦人科に入院されていた時の主治医でありました。Kさんは卵巣癌と診断されましたが、同時に子宮頚癌をも併発しておりました。Kさんが卵巣癌の治療としてCP療法を受けるに至った経緯を説明いたします。卵巣癌の化学療法として当時世界的に標準とされていたのはCPあるいはCAP療法でありました。よってKさんには、家族と共に平成10年1月16日にこれらの化学療法についての副作用や効果等について説明し、化学療法を行うことの同意を得ました。また診療録にも記載されている通り、CPあるいはCAP療法の選択に関して北陸GOG研究会の登録票に必要事項を記載して提出するよう研修医に指示しました。しかし提出がなかったため私が1月19日に登録票に必要事項を記載し、他の症例と同様、登録の可否について事務局の審査を受けることとなりました。事務局は当教室に設置され、登録の可否に関して検討を要する症例は教室の代表者である井上教授が最終的に決定することとなっておりました。本症例は年齢や全身状態などは条件を満たすものの、子宮頚癌との重複癌である点がプロトコール(薬剤の具体的投与法について明記してある説明書)に明記されている条件に抵触するため症例登録は不可と教授が判定し、判定結果を私が登録票に記載しました。

 北陸GOG研究会は卵巣癌の化学療法について最善の治療法を模索するため組織された研究グループで、金沢大学産婦人科が中心となり北陸地区の卵巣癌治療のレベルアップをはかるべく講演会や自主調査研究などの啓蒙活動を行ってまいりました。現在までに認可されすでに使用されているいくつかの薬剤の最良の組み合わせを客観的方法により明らかにすることを設立の目的としております。新薬の効果を調べるための実験的な臨床治験とは本質的に異なり、すでに多くの施設で使用され、標準的治療法となっているものの中で、最良のものを模索するための調査を目的としております。事実、CAP療法もCP療法も世界中の病院で標準的に使用されております。しかしながら日本人独自の効果成績や副作用の発現様式については基礎データに乏しく外国の成績を元に投与しているというのが現状であります。また北陸の多くの病院で施行されているCAP療法またはCP療法は最も効果があるとされている薬剤量の半分程度であったり、標準的なクール数(6クール)の半分程度で済ませたり、卵巣癌の化学療法が十分に行われていない状況にありました。

 そこで標準的に使用されているCAP療法とCP療法の両者を患者さんに公平に振り分けて各々の効果や副作用の違いの基礎データを集積しようとするのが本研究の目的であります。この調査のための登録期間は平成7年9月から平成9年8月までと予定されていましたが、集積されたデータが少なかったため、その後も継続して平成10年6月までの症例が登録されています。

 基礎データの集積に際しては厳しい条件が登録の際に課せられます。これは両者を公平に振り分けるために必要な条件であります。たとえば本症例のごとく、他の臓器に卵巣癌以外の癌を有する患者では、癌が進行し患者さんが亡くなった場合にどちらの癌が進行してなくなったのかは判定が不可能となります。この場合、果たして化学療法が卵巣の癌に効いたのか効かなかったのか不明となります。このようなことを避けるために重複癌は登録から除外されるわけです。よってKさんを登録対象外としたのは北陸GOGの研究目的からすれば事務局としては当然の対応でありました。

 実際の治療には検査成績から明らかであった貧血の存在等を考慮の上、骨髄機能などの副作用がより軽いと考えられるCP療法を行うことと致しました。北陸GOGのプロトコールに記載されている使用量や使用法は世界的にみて最も標準的なものを採用しているため、実際Kさんに使用されたCP療法も必然的に北陸GOGのプロトコールと同じものとなるわけですが、登録に関しては以上の経過によりなされていなかったことを陳述させていただきます。

 前述したとおり、すでに症例登録票を入手していた原告側は被告側が提出した症例登録票の記載内容に驚いたが、ただちに自分たちの手元にある症例登録票を証拠として提出することはせず、まず被告側が提出した証拠や主張の「矛盾点」を指摘し、説明を求めた。

 その一つは、症例登録先に関する記載内容が複数の文書で異なることだった。

 先に紹介したように、被告側の登録票の症例登録先は「金沢大学 産婦人科」とされ、「0762」の市外局番で始まるFAX番号が記されていたが、被告側がこの登録票とともに証拠として提出したプロトコール「クリニカルトライアル-卵巣癌(Ⅰ)-」には、「登録事務局」の連絡先として市外局番が「06」から始まる電話番号と、「0120」から始まる10桁のFAX番号が記されていた。このFAX番号は、原告側が入手していた登録票記載のFAX番号と同一だった。また、プロトコールに添付された症例登録票のひな型は、原告側が入手していた症例登録票と同一で、症例登録先として「0120」から始まるFAX番号が記されていた。

 被告側の登録票提出から2カ月後の2000年4月25日付準備書面で原告側は、プロトコール記載の登録事務局の電話、FAX番号と異なる記載内容になっている登録票について「到底信用できるものではなく、内容虚偽の症例登録票を偽造したものであることは明らかである」と指摘した。そのうえで、症例登録先が異なっている理由、プロトコール記載の「0120」から始まるFAX番号がいかなる機関、団体の連絡先であるかその名称と所在地、その機関、団体が症例登録先とされている理由を明らかにするよう、被告側に求めた。

 さらに原告側は、A医師の陳述書の内容にも疑問を呈した。

 A医師は、Kさんが重複癌である点で症例の選択条件に抵触することを理由に井上教授によって最終的に症例登録が不可とされたため、その判定結果を登録票に記載した、と陳述書で述べていた。これについて原告側は、重複癌に加え、腎機能障害があったKさんは選択条件を満たしていなかった、としたうえで、そのことは1998年1月19日より以前に判明していたことであり、北陸GOG研究会の中心的役割を担い、婦人科がんの診断、治療に精通していたA医師であれば、井上教授の判断を仰ぐまでもなく、選択条件を満たしていないことは容易に判断できたはずである、とA医師の陳述書の信用性に疑問を投げかけた。

 このほか原告側は、「調査であって臨床試験ではない」という被告側の主張にも反論を展開した。臨床試験は、「評価を目的として、人を用いて、意図的に開始される科学実験」であり、「目の前の患者の治療

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