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微笑みの国タイで事務所を立ち上げ、仕事をするということ

松本 久美

微笑みの国タイで仕事をするということ 
~現地でのサバイバル法務雑記~

 

アンダーソン・毛利・友常法律事務所
松本 久美

松本 久美(まつもと・くみ)
 2005年3月、慶應義塾大学法学部中退(3年次修了後、法科大学院へ進学)。2008年3月、慶應義塾大学法科大学院修了(法務博士 (専門職))。2010年12月、司法修習(63期)を経て弁護士登録。2010年から2014年まで新千代田総合法律事務所勤務。2014年9月から2017年10月までOne Asia Lawyers (Thailand) Co., Ltd 現地代表(バンコク)。2017年11月、当事務所入所、シンガポールオフィス勤務。

 1 クーデターに向けたデモに沸く微笑みの国のタイに降り立って

 2014年5月、仕事の関係で軍事クーデター直前のバンコクに飛ぶこととなった。当時の報道等や現地からの情報によるとデモ隊が集まることが予想される中心街は危険だというので、慎重を期して安全性を重視した場所にある5つ星のホテルに宿をとった。初めてのタイ訪問であり、また、渡航を延期した方が良いのではないかと真剣に悩んだ中での決断でもあったため、相当な緊張の中での出発となった。

 ところが、実際にバンコクに入ってみると、報道とは異なり、一部の地域を除いては平和そのもので、ぶらぶらと街中を歩くことも出来、道ですれ違うタイ人は皆微笑みの国と呼ばれるにふさわしい笑みを湛えていた。結局、心配は杞憂に終わり、その夜は訪問先のタイ人を交えて出かけ、冗談を言い合って遅くまでお酒を酌み交わすという、全く想像もしなかったそれは明るく、楽しい時間となった。外から報道で見聞きするだけでは現地のことは分からない。そう痛感させられた。

 2 バンコク移住とローカル事務所での働き方

 前職におけるタイでの法律事務所立ち上げの使命を受け、2014年夏の終わりからバンコクに移住した。しばらくの間は、バンコクのローカル事務所にジャパンデスクとして出向しタイにおける法律実務を学びつつ、立ち上げの準備をすることとなった。出向先には未だにお世話になることが多いが、他の法律事務所の立ち上げを前提としてきている出向者を温かく迎え入れていただいたことには感謝しきれない。

 バンコクのローカル事務所での仕事は、タイに進出する日系企業の支援、進出済みの日系企業の新規事業立ち上げの際の規制調査、ジェネラルコーポレート、労務、知財、不動産取引、訴訟対応や撤退支援など多岐に渡ったが、事務所の弁護士やスタッフは皆いつも明るく楽しそうに働いていることが印象的であった。

 最初に直面した仕事面での難しさは、日本では自分ひとりで完結できていた仕事が、タイではタイ人弁護士やスタッフの力を借りなければ何もできないという現実にあったと思う。当然ながら、タイでは、タイ語が堪能でなければ法律の原文調査も出来ないし、タイ語での書面作成もできない。また、タイ法の弁護士ではないため法廷に立ち依頼者を代理することもできないのである。自分で最善と思うようなタイミングで最善と思うような仕事をすることができないという事態には、正直少なからぬストレスを感じた。当時の私は、海外の法律に関連したリーガルサービスに従事するということは、個であることにこだわり過ぎるのではなく、いかにチームの協力を得て業務をスムースに推進させるかが重要となることに気づいていなかったのである。後に大いに反省をした。

 3 タイでの法人立ち上げを経験して

 出向が明け、法律事務所立ち上げのための法人登記手続きを開始し、これはスムースに完了した。しかし、法人登記だけでは会社は動き出さない。立ち上げとは、ゼロから全てを作り上げなければいけないのだという事実に対し、率直に言って当時の私は認識が甘かったのである。

 最初のチャレンジとなったのは、人材の採用だった。そもそも日本での採用経験すらない人間が、いきなり外国人であるタイ人の採用面接をするのであるから大変お粗末な事態である。しかし、立ち上げ時期というのは短期間に事業に必要なものを最低限全て揃えなければならないため、立ち止まって熟考する時間など与えられず、結局、周りに相談しつつ見様見真似でなんとか面接をし、採用者を決定した。

 仲間となる弁護士やスタッフが決まり、オフィス、机、椅子、パソコンなどが揃っても、まだ十分ではなかった。事業開始前日にオフィスの机に座り、ふと各人の机にペンが備わっていないことに気づいた。業務用の文房具は購入しなければ手に入らない、そんな当たり前のことを失念していたのである。これも反省である。同時に、心の中でこれまで何も言わずとも必要な文房具類を用意してくれていた過去の秘書さん方に大変感謝をした。結局、業務開始日はスタッフと一緒に近くのオフィスグッズショップに行き、それぞれ気に入ったペンを選ぶというところから始めた。今となっては良い思い出である。

 4 タイで日系企業の頭を悩ませる労務問題

 その後、バンコクでのテロ爆破事件発生など緊張が走る時期も経ながら、試行錯誤を重ね、いつしか採用にも慣れ、タイの法律にも詳しくなり、現職になってからも現在まで長らくタイ法務に関与させていただいているが、渡タイ当初から一貫して思うのは、タイ現地の日系企業が頭を悩ませている法律問題のうち、最も多いのは労務問題ではないかという点である。

 しかし、日本の本社や私が今住んでいるシンガポールの統括会社等には必ずしもその深刻さが伝わりきっていないのか、「なぜタイでは頻繁に労働問題が起こるのだろうか」という質問を受けることも少なくなく、タイ現地との間に労働問題に対する認識のギャップがあるように見受けられる。

 経験上、タイの労働問題の発端の多くは、コミュニケーションにおけるすれ違いにあるように感じるが、その要因のひとつには、タイの文化や言語、タイ人の性格に対する十分な理解が必ずしも容易ではないことが挙げられるだろう。たとえば、タイは、「微笑みの国」と称され、確かに笑顔があふれている国であると思う。しかし、実は、タイ人の「微笑み」には複数の種類があり、純粋に楽しい気持ちや親切な気持ちを示すもののほか、「私はあなたの意見には反対である」といった趣旨の気持ちを示す笑顔もあると言われている。笑顔だからといって必ずしも前向きにとらえてはいけないのである。

 また、タイ語がハイコンテクスト言語であり、相手の言い分を理解するためには、発せられた言葉そのものだけではなく、その背景事情も考慮に入れて適切に意味を解釈することを求められるが、これが外国人にとってはなかなか難しい。業務遂行上の美徳とは何か、上司に期待される役割は何かといったことに対する常識とも言うべき根本的な考えにすれ違いが潜んでいる場合もある。このように可視化しづらい相違点が多くあることから、日本人側としては十分コミュニケーションをとっているつもりでも、タイ人の方では秘めた不満を溜め込み、これが積もり積もって労働紛争に発展するということになる。

 法的な側面からは、タイの労働裁判提起が容易であるという点も指摘できる。例えば、訴訟提起の際に訴状を準備する必要は必ずしもなく、管轄の労働裁判所に出頭し、口頭で訴えを提起することも可能となっており、準備的な側面での負担がかなり軽減されている。また、訴訟費用は無料とされており、費用面での負担もない。したがって、従業員は気軽に労働裁判所に駆け込み、訴訟を提起することが出来、その結果として、日系企業が被告としてタイの労働訴訟に巻き込まれるケースが後を絶たないのである。

 経験した労働裁判の中で最も多いのは不当解雇に関する裁判である。その要因としては、タイで従業員を解雇することのハードルの高さが挙げられるだろう。例えば、解雇をする際には原則として事前通知が必要であるが、その通知期間の計算方法や解雇通知書の記載内容の検討は重要であり、また、法定の解雇補償金の支給要否等検討すべき点は多い。労働裁判では、解雇の正当理由が認められるか否かという点が大きな争点となることも多く、この点につき、後の訴訟に備えて事前に入念な調査と証拠固めをしておくことが推奨されるが、日々、様々な業務を兼務し多忙を極めている日本人駐在員にとって十分な時間を割くことは必ずしも容易ではないこともある。また、タイ語で記載された書類の中から必要な証拠を探し出してもらうためには、タイ人スタッフの協力が不可欠であることが大半だと思うが、仲間である従業員を解雇するための証拠集めに積極的に関与したいと思うタイ人はそう多くはないように感じている。それでもスムースに協力してもらうには、現場レベルでの工夫が必要となる。様々な事情から十分な準備が出来ぬままやむを得ず解雇を実施せざるを得ないこともあることは理解しているが、そういったケースはやはり後に裁判となり揉めることが多い。

 ひとたび裁判が始まると、慣れない土地での紛争ともあって、経営陣の心労は大きく、また、本来業務に注力すべき時間や費用を訴訟対応に割かなければならなくなり経営にとっても少なくない影響を与える。

 タイにおいて事業経営をする場合には、労務管理が大きなポイントとなってくるといえるのではないかと思う。

 5 さいごに

 バンコクを訪れたことがある方はご存知かもしれないが、バンコクには日本食があふれており、日本と同様の生活をするために必要なものはほぼ一通り揃っている。気候は常夏で、年間を通して様々な種類のフルーツを楽しむことができ、また、タイ人は親切でおしゃべり好きな人が多く、バンコクでの生活は非常に楽しいものである。もっとも、仕事をするとなると、労務問題が重く頭をもたげてくる。また、外国の地ということもあり、日本で行っていたようには自分の思うとおりに全てをコントロールすることも難しい。微笑みの国で働くということは、必ずしも楽なことばかりではないというのが本当のところであると感じているが、タイで事業を立ち上げてこれを続けていくことの苦労を少しではあるが経験した身としては、出来る限りタイやASEAN各国で活躍を続ける日系企業に対して法務の側面から力添えができればうれしく、そのために引き続き精進をしていければと思っている。