2019年07月22日
■父 山下一盛
香川県出身。1960(昭和35)年に中央大学を卒業し香川県庁に入った。幹部候補生として知事部局の秘書課に配属されたが、県の土木部長が逮捕される汚職事件が起き、行政の腐敗の一端を知る。それを機に、不正を摘発する側の検事を目指し県庁に勤めながら、司法試験の勉強に取り組んだ。
のちに妻となる孝代さんは中央大学OBの勉強会仲間だった。結婚を機に孝代さんは試験の勉強をあきらめ、主婦として一盛さんを支えた。やがて一女一男を授かる。65(昭和40)年9月に生まれた長男には、「男の子だったら、この名前に」と2人で決めていた名をつけた。「貴司」。「司法を貴ぶ」の思いを込めた名前だった。
一盛さんが司法試験に合格したのは翌66年9月。31歳になっていた。2年間の司法修習を経て69年4月検事任官。当時の検察には、大阪高検、大阪地検を中心に近畿圏の検察庁で主に異動し、昇進していく「関西人事」があり、一盛さんはそれに組み込まれた。
役人務めの経験と司法試験の勉強で苦労した日々が、一盛さんを、ソフトな物腰で相手の心を開く、人間味あふれる検事に育てた。事件の構想力やバランス感覚で一目置かれるようになった。ただ、少し年を食っていたためか、エリート検事の関西の登竜門である大阪地検特捜部に呼ばれることはなかった。
■水島コンビナート重油流出事故の刑事責任追及
被害を受けた漁民らは、流出元の三菱石油の刑事責任追及を求めた。三菱石油を含めた関係企業と責任者に対する公害罪の適用を求めたが、岡山地検は76年12月、「タンクに取り付けた直立階段基礎工事に不備があり、タンク底部の工事の工法にも不備があった」として、タンクの工事に関係した建設会社など2社と工事責任者ら6人を岡山県海面漁業調整規則違反などの罪で起訴。三菱石油側は不起訴とした。
被告側は無罪を主張。公判は113回に及んだ。検察側は、2社に罰金各1万円、6人に懲役3~4月を求刑したが、岡山地裁は89年3月、「事故原因は特定できない」として全員に無罪を言い渡した。検察は控訴を断念。結果として、多大な汚染被害を出した重油流出の刑事責任はだれも負わないこととなった。
一盛さんは公判途中の79年3月に京都地検に異動したが、「この事件の公判では地盤が緩んでだめになってしまっていることと担当職員の予見可能性が問題であり、十分な立証ができていなかった。私が異動を断り、公判でそれができていれば、あるいは違った判決になっていたかも」と今回、筆者の取材を受けて振り返った。
■東本願寺事件を解決する
一盛さんが着任した当時の京都地検は、大きな懸案を抱えていた。門信徒1千万人といわれた巨大教団、浄土真宗大谷派の本山、東本願寺を舞台にした背任事件である。
宗祖・親鸞の末裔である法主(大谷家)とその四男らが巨額借財返済のため教団資産を無断で処分したとして、教団執行部(内局)は法主や四男らを背任容疑などで京都地検と京都府警に告訴した。
刑事処分を決める地検の捜査は難航した。外形的には犯罪容疑は濃厚だったが、背景には、法主側と内局側との教団改革をめぐる10年以上続く内紛があった。捜査権を持つ検察は民事に介入できない建前だ。特に、憲法が保障する信教の自由への介入を疑われるようなことは避けたい。
さらに敏感にならざるを得ない事情があった。法主の妻であり四男の母親である「裏方」は、当時の昭和天皇の妃である良子皇后の実妹だった。天皇家の濃い親戚である法主一族が被告人になると、天皇家の権威を傷つける恐れがあったのだ。昭和天皇本人や宮内庁も事件の行く末をいたく心配し、法務省に相談しているとの噂もあった。起訴、不起訴のどちらになっても、片方の当事者から批判を受ける恐れがあり、捜査方針が定まらなかった。
時効が刻一刻と迫る中で、一盛さんは京都地検刑事部検事として捜査の中核を担うことになった。筆者は当時、毎日新聞京都支局で司法・警察を担当した。一盛さんとは、この事件を通じて知り合うことになった。
■乾坤一擲
検察は、膠着状態にけりをつけるため、翌80年8月から法主の側近の僧侶らを次々に逮捕。10月15日朝には、四男方を家宅捜索した。これが乾坤一擲の勝負手だった。この捜索を「四男も容疑が濃厚。逮捕もあり得るぞ」との皇室や宮内庁に向けた検察のサインだったと筆者は理解し、そのニュアンスを織り込んだ解説記事を書いた。
毎日新聞夕刊でこの捜索が大きく報じられると、元名古屋高裁長官の内藤頼博弁護士が京都に飛んできた。内藤さんは信州高遠藩主の末裔で元子爵。キーマンの裏方とも旧知の間柄だった。訴追を回避するための「交渉人」だった。
結果として検察は、当事者を和解させて長年の宗門の紛争を一応、解決し、起訴を回避することができた。
もっとも、法主側、内局側とも納得ずくの和解ではなかった。特に内局側には、大谷家側の責任追及が半端になり、その後、新たな内紛を招来する禍根を残すのではないか、との懸念もあったとみられる。しかし、当時の筆者は、この捜査を通じ、検察権の発動が事態を動かすダイナミズムと報道の威力に痺れ、「事件取材はおもしろい」と心底思ったものだ。
■離れ業の裏側
当時の検察関係者によると、一盛さんら捜査現場は一連の捜査について、上司の地検幹部から「和解に追い込め」と指示を受けていた。ところが、和解が成立すると、その上司は「検事は示談屋みたいなことをするものではない」と文句を言った。現場検事の一人が「何を言っているんだ」と思わず反論する一幕もあったという。
毎日新聞京都支局記者として筆者とともにこの事件を取材した田原由紀雄さんは、2004年12月に上梓した「東本願寺三十年紛争」(白馬社)の中で、四男宅捜索の9日後に法務省の前田宏・刑事局長と内局側幹部が交渉した際の様子を当時の内局側幹部の話をもとに紹介している。
前田局長はいきなり「なぜ和解ができないのか。和解を阻害する要因は何なのか」と聞いてきた。……僕は単純明快に「大谷家の借金がいくらあるか、が問題だ…」と返事をした。すると、前田局長は、その場で京都地検に問い合わせの電話を入れ、「借金は10億円を切る。地検のほうで説明してくれるから、明日、地検に行って担当検事から聞いてください」と話した。それで、翌日、……担当検事に会って、借金の金額と内容について説明を受けた。
田原さんは、「捜査内容を当事者以外にもらすことにも法律上問題がある。検察当局は、この時期、和解実現のため、いわば“超法規的措置”をとったといえるだろう」とし、内局幹部の証言として「前田局長は密談の席上、『法務省は宮内庁に頼まれて動いている』ともらしたという」とも記した。
同書には、前田さんの反論は掲載されていない。一盛さんには前田局長から電話はなかった。前田さんはその後、検事総長にまで昇りつめ、弁護士に転身したあとも、法務・検察の人事などに影響力を持った。17年12月に死去。いまとなっては真相を確認しようもないが、一盛さんらに対する地検上司の発言は、法務省の頭ごなしの指示に対する検察現場の混乱や反発の反映だったのかもしれない。
■退官して弁護士に、長男が検事の後を継ぐ
一盛さんは、東本願寺事件が一段落した1981(昭和56)年3月、京都地検で辞職する。検察が嫌になったわけではない。長い単身赴任の生活に疲れたのが最大の理由だった。5年間過ごした岡山で弁護士を開業。事件の真相を見抜く力に秀れ、穏やかな人柄もあって、人気弁護士になった。岡山県公害審査会会長、岡山香川県人会会長などを務めた。
その長男が山下貴司法相である。一盛さんが京都で難事件に取り組んでいるときはまだ、岡山大学付属中学校の3年生だった。岡山操山高から東大法学部に進んだ。
筆者が一盛さんの紹介で貴司さんと知り合ったのは、貴司さんが大学に入学して間もないころだ。目に力のある、正義感あふれる少年だった。
入学当初から司法試験を目指していた。一盛さんは、「検事も、弁護士もそれぞれ大変な仕事。どの道を選ぶかは本人に任せ、法律家として穏やかでのびのびとした仕事をしてほしいと思っていた」と振り返る。
当時の検察は、田中角栄元首相に対する一審実刑判決でロッキード裁判にめどが立ち、撚糸工連事件を皮切りに、政官財の暗部に捜査のメスを入れ始めていたころだ。筆者は毎日新聞東京本社社会部の検察担当。権力犯罪摘発の必要性などを貴司さんに力説し、父親の京都での活躍ぶりについても話した記憶がある。
89(平成元)年11月、貴司さんは司法試験に合格。「罪を犯した人をもう一度、立ち直らせる仕事をする」として父と同じ検事の道を選んだ。
■外交官を経て特捜検事、そして防衛汚職事件摘発
92年4月検事任官、東京地検を振り出しに、鳥取、横浜、盛岡地検、法務省刑事局付検事を経て2002年7月から約3年間、駐米日本大使館一等書記官。法務・検察のエリートポストだ。リーガルアタッシェ(法律顧問)として、日本政府を相手取り米国の裁判所に提訴された慰安婦訴訟で応訴の陣頭指揮をとり、米連邦最高裁まで争った末に勝訴した。05年8月に帰国。同年10月東京地検検事。刑事部を経て特捜部に配属された。
防衛専門商社「山田洋行」の内紛で浮上した不正経理疑惑を端緒に内偵を進めていた特捜部は、まず1億円余を流用したとする業務上横領容疑で同社元専務を逮捕。続いて、山田洋行の装備品受注を有利に取り計らう見返りとして元専務からゴルフ旅行接待などを受けていたとして守屋武昌・元防衛事務次官を逮捕した。
守屋氏は08年1月までに3件の収賄罪(賄賂総額約1250万円)と衆参両院の証人喚問での偽証(議院証言法違反)で起訴され、公判では無罪を主張したが、2010年に懲役2年6月、追徴金1250万円の実刑判決が確定し服役した。
守屋氏は防衛庁の背広組(内局)のキャリア官僚。4年余、事務次官を務め、「防衛省の天皇」の異名をとった。事件後、内局は力を失い、防衛省では政治家と制服組の発言力が増すことになった。
■辞職。政界へ
「夜、突然、電話があった。辞めて親父の事務所で弁護士をやる、と。ああそうか。これで、私も少しは楽ができると思っていたら、自民党から声かかって政治家になってしまった」と一盛さんは振り返る。
貴司さんは同年11月、自民党の公募に応じ、12年12月の総選挙で衆院選岡山2区から立候補して初当選。連続3回当選し18年10月、第4次安倍改造内閣で法相に起用された。現憲法下の法相としては101代目。令和最初の法相にもなった。
■入管法改正
日本は表向き「非熟練の単純労働者は受け入れない」と宣言しながら、国際貢献名目の外国人技能実習生や特別枠で入れた日系ブラジル人労働者、「出稼ぎ留学生」などに単純労働を担わせ、人手不足を埋めてきた。
その間に日本に在留する外国人は250万人を超え、事実上の「多文化共生社会」となった。外国人が集住する地域では、生活習慣や文化の違いによる日本人との摩擦が起き、教育、福祉などの負担増で悲鳴を上げる自治体も出てきたが、政府は見てみぬふりをしてきた。
しかし、少子高齢化による労働者不足は深刻になり、ついに産業界は音を上げた。政府は産業界の要望を受け、技能実習生向けの在留資格とは別の新資格「特定技能」を導入、一定の日本語能力と技能を持つ外国人を受け入れ、熟練した技能を持つ者には家族の帯同も認める――などとする入管法の改正案を策定した。
対象となる産業は、介護、宿泊、外食など14分野で、5年間で最大計34万5150人の来日を見込み、併せて、外国人増による社会の負担を軽減するため、自治体などへの支援も積極的に行う、とするものだ。
野党は「技能実習生から特定技能に移行する人が多いと推測されるのに、技能実習生制度の問題点が十分検証されていない。拙速だ」などと反対の論陣を張り、失踪した技能実習生に対する法務省の聞き取り調査結果に誤りがあった、として政府を追及した。
貴司さんは、法務省の手落ちについては素直に頭を下げ、丁寧に答弁を重ねた。最終的に「強行採決」とはなったが、大きな混乱はなく法案は成立。この4月から改正法が施行され、同法を所管する法務省入国管理局は、法務省外局の出入国在留管理庁となり、初代長官には、同局長だった佐々木聖子氏が就任した。
■大臣に聞いた
6月5日、貴司さんに法務大臣室で話を聞いた。
法律家の端くれとして、基本法制の改正などはやりがいがあります。元働いていた役所で昔の仲間と一緒に仕事ができるのも楽しい。幸い、みなさんの奮闘のおかげで成果に結びついています。
――お父さんは、大臣になられたことを喜んでいるでしょう。
大臣になっちゃって大変だな、と思っているのでは。(20年前に亡くなった)母の仏前には「こういうことになりました」と報告しました。果たして喜んでくれているかどうか……。一生懸命やるだけです。小泉進次郎、小渕優子、福田達夫の3先生(衆院議員)が、お祝いに(縁起物の)だるまをくれました。入管法が通って片方の目を入れました。任期が無事に終わったら、もうひとつも入れよう、と。
――その入管法ですが、日本の国の形を変える大変革といわれています。歴史的意味、当面の課題、これからの取り組みについてお考えを。
観光客を含む訪日外国人は3千万人を超え、民主党政権から政権交代する前の3~4倍になりました。在留外国人も273万人。うち働いている方は146万人です。入管行政をめぐる状況は質量ともに変わった。であれば、(外国人材を)きちんと受け入れ、きちんと在留管理もせねばなりません。外国人材の受け入れだけでなく、(日本人との)共生のための総合的対応策も喫緊の課題でした。
その外国人政策の総合調整管理機能を担うのが法務省外局の入管庁です。菅官房長官と法務大臣の私が共同議長として関係大臣が一堂に会して外国人材の受入れ・共生のための総合的対応策を策定し、その中には126の施策が盛り込まれている。これは画期的なことです。
(グローバル経済のもとで)外国人材については、実は、国際社会では取り合いになっています。日本が(外国人材から)選ばれる国にならなければならない。そのためのきちんとした施策が必要なのです。
――改正入管法案の国会審議中は午前6時から事務方のレクチャーを受けて審議に臨んだとか。
議員による質問通告が夜に及ぶ。それから答弁案をつくると、それを頭に入れるために6時からでないと間に合わないんです。それなりの準備をしないと、きちんと答弁できません。技能実習について失踪者の集計結果に誤りなどもありました。その際には、プロジェクトチームを立ち上げて、原因を解明し改善策を示しました。事務方にはご苦労をかけました。
――野党から法案について拙速批判がありました。悪質な仲介事業者の排除のため送り出し国と情報共有の枠組み構築を内容とする二国間取決めの締結も遅れていると聞きますが。
対象の9か国のうち5か国と締結ができ、残る4か国も実質合意できています(インタビュー当時)。外交官経験からすると、ものすごいスピードですよ。もともと技能実習の仕組みの中で13か国と二国間取決めがある。その信頼関係がありました。外国側には、悪質ブローカーから自国民を守らなければならないとの強い想いがあるのです。だからこのスピードでできたのです。
(7月4日現在、人材の送り出しが想定される9か国のうち7か国と締結ができた。このほかスリランカとも締結した)
――問題は、「共生」策の方でしょうね。
関係各省庁は非常に協力的で、連携もうまくいっています。行政としては、自治体が「共生」の最前線になりますが、これまで日系ブラジル人などの受け入れで苦労した経験を共有してもらっています。総合的対応策で計100か所のワンストップセンターの設置・運営について交付金による財政支援を行います。交付金の第一次募集では68の自治体に対して既に交付決定を行っており、目標はクリアできると思います。
――特捜部は日産前会長のカルロス・ゴーン氏を摘発しました。不祥事以来、萎縮していた特捜検察がアグレッシブになってきた印象があります。検察は、国民と社会の期待に応えていると思いますか。
私の受け止めはちょっと違います。確かに、検察は事件摘発を国家国民のためにやっている面はありますが、国民の期待に応えるために事件を摘発する、あるいはリスクをとるという感覚はありません。検察は法と証拠にもとづいて法執行を行います。与えられた権限を適正に行使する、というのが、私のスタンスです。不適正な検察権行使があれば、厳正に対処しなければりません。いまの特捜部は、何かの期待に応えたい、というのではなくて、事件があれば、与えられた権限の中で適正に対応している、と思っています。
人事権者なので(苦笑い)、特定の検事について評価はくだすことはできません。
――ゴーン氏の事件では、外国メディア中心に「人質司法」など日本の司法制度に対する批判がありました。
日本では、被疑者・被告人、有罪確定者の身柄拘束を決めるのは裁判官です。米国やフランスでは(裁判官がタッチしない)無令状拘束が通常です。フランスの予審判事は最長で4年8か月も被疑者を拘束できるのです。
昨年、ドイツで排ガス規制の数値ごまかし事件がありました。アウディの元社長は4か月、ポルシェの元管理職は9か月勾留されました。国によって司法制度に違いがあることを広く知ってほしいと思います。
日本の司法制度自体が理解されていないがゆえに外国の報道機関に誤解があるのであれば、しっかり伝えていかねばなりません。外国報道機関を対象に、事務方が定期的に説明をしています。また同様に日本の報道機関への説明も大切だと考えています。
■結び
一盛さんは貴司さんの
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