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日本からインドへの投資、投資関連協定に基づく「仲裁」の活用で事業を守る

鈴木 多恵子

インドにおける投資仲裁の活用
 ~日印包括経済連携協定における日本の投資家の保護と活用法

西村あさひ法律事務所
鈴木 多恵子

鈴木 多恵子(すずき・たえこ)
 西村あさひ法律事務所パートナー弁護士。
 2006年弁護士登録。2012~2013年インドの法律事務所(ムンバイ・バンガロール)に出向し、以降日系企業のインドビジネス助言に専従。M&A、JVなどのインド進出案件支援に加え、インド子会社における不祥事、労務、商事紛争(訴訟・仲裁)、競争法・刑事・税務事案を含む当局対応のためインド各地を頻繁に往復し、インドの現場を熟知した現地対応に実績を有する。

 1.はじめに

 インドは、人口約13億、日本の約9倍、EU相当の国土を有する巨大成長市場である。インドへの進出日系企業数は既に1400社を超え(2018年12月付在インド日本大使館調べ)、2019年には、インドが日系製造業企業の有望事業展開先国の首位に中国を押さえて返り咲き(株式会社国際協力銀行による2019年度海外直接投資アンケート調査結果)、2020年には、これまでのデリー、ムンバイ、チェンナイに加え、バンガロールへの直行便も就航し日本とインド主要都市の距離が大きく縮まるなど、今後一層日印ビジネスが拡大していくことに疑いはない。

 しかしながら、インドでのビジネス展開には、中国や東南アジア等とは異なる難しさがある。法律に関してみれば、法制度は旧宗主国であるイギリスのコモンロー(判例法)をベースに、総じて比較的高度な発展段階にあり、法曹人口と教育も充実し、司法権も独立しているが、頻繁な法改正による制度変更や規制の複雑化(特に租税法)、当局による解釈・執行の不安定(特に税と競争法執行)、訴訟社会を背景に膨大な事件数を抱える裁判所では審理遅延が深刻であるなどの問題が散見され、日系企業の平素のビジネス遂行にも小さくない影響を与えている。

 外交をみれば、安倍総理が2018年首脳会談において「日印関係は世界で最も可能性を秘めた二国間関係」と述べるなど、政府間(対インド中央政府)の関係は強固であるが、インドは、広大かつ多様な国土統一のために連邦制を採用しており(28州と9つの連邦直轄領)、中央政府と州政府はそれぞれ憲法が規定する法令制定権限を有する。例えばビジネスに関する分野では、租税、不動産、労働については各州も立法権限を有するため、これらの分野では、州法及びその背景にある州政府の政策の把握が重要となるが、近時、州政府による突然の法令変更や政策変更により、進出日系企業が大きな損害を被る事案が発生している。

 投資受入国による国家の行為により経済的被害を被った外国投資家は、同国の国内裁判所における司法手続を通じて解決する方法の他、投資受入国と母国が締結する投資協定が定めるISDS条項(investor-state dispute settlement provisions)に基づき、投資受入国に対し損害賠償を求める仲裁を提起することができる(以下「投資仲裁」)。日系企業がこれまで外国政府に投資仲裁を提起した事例は、欧米諸国の企業の例と比較するとまだ限定的だが、インドはこれまで外国企業から25件もの申立てを受けており、現在も15件以上の被申立人となる投資仲裁の「常連」国である。身近なところでは、2017年に日系自動車メーカーがインド南部のTamil Nadu州政府による工場建設インセンティブ(補助金)の不払いを巡って約800億円を求める投資仲裁を提訴し、2019年末には韓国国営電力会社が投資先Maharashtra州発電プラントへの州政府によるガス供給停止等の措置に関し、約400億円の損害賠償を求める投資仲裁を提起するなど、日系企業がインド政府との間で投資仲裁を活用して投資保護を図る素地は整ってきている。

 本稿は、インドにおける投資仲裁の最新動向を踏まえ、日系企業のインドビジネスへの日印包括経済連携協定(Comprehensive Economic Partnership Agreement between Japan and the Republic of India、以下「日印CEPA」)の戦略的活用を提案するものである。

 2.日印CEPAの意義

 インドが多数の投資仲裁を抱える契機となったのは、2011年にインド政府が敗訴したWhite Industries事件(White Industries Australia Limited v. The Republic of India)であると言われている。この件は、オーストラリア企業によるインド国営企業に対するICC仲裁判断執行が9年を経ても実現されないインド国内裁判所の訴訟遅延について、豪印投資協定の最恵国待遇(Most-Favored-Nation Treatment)等の違反が認定された事案である。同仲裁判断後、外国投資家による投資仲裁提起の増加を受けて、インド政府は、2016年には公正衡平待遇(fair and equitable treatment)を一律除外し、最低5年間は国内救済手段を尽くすこと等を規定して外国投資家の保護範囲を限定したモデル二国間協定(Model Bilateral Investment Treaty)を公表し、その後の協定締結交渉は同モデルに準拠することを宣言するとともに、2017年までに欧州諸国を含む58ヶ国との間の既存の二国間協定等を破棄又は終了させた。

 もっとも、強固な日印関係を背景に、日印CEPAは2011年の発効当時のまま、投資家保護に手厚い条項が維持されている。このように、インドにおいて希有な戦略的ツールを日系企業が戦略的に活用しない手はない。具体的には、インドにおける次のような事例において、日印CEPAが規定する公正衡平待遇、収用制限(expropriation)、完全な保護及び保障(full protection and security)、アンブレラ条項(umbrella clause)等への違反を観念できる。

  •  長期間の事業継続を想定して州政府から事業許可を受けたのに、相当な理由なく事業許可更新が拒絶された。
  •  工業団地で所有権の割当てを受けた土地について、州工業団地公社が一方的に契約を撤回し、今後入居者に所有権は認めない方針となったので長期リースに変更すると通知してきた。
  •  州政府が突然施行した地元民雇用義務により、子会社工場において大幅な人員計画変更を迫られ大きな経済的損害を被った(又は事業継続が困難となった)。
  •  州政府の政権交代により、落札済みの入札が取り消された。
  •  州政府によるエネルギー政策変更により、投資した特定目的会社の売電契約が政府により一方的に破棄又は不履行となり、売電により想定された利益が得られなくなった。
  •  一定規模の工場設置による雇用創出等に対して州政府から補助金が支払われる約束であったのに、工場稼働後も当該補助金が支払われない。

 インドでは、政権交代(特に州での政権交代)などを機に、従前の政策や法令が変更されることは頻繁にあり、以上はその典型例のうちの一例である。

 直近では、インド南部のアンドラ・プラデシュ(Andra Pradesh)州が、同州所在の企業・工場等に対し、3年内に労働者の75%以上を州内居住者とすること、違反には罰金や許認可の取消等の制裁を課すこと等を内容とする州法及び施行規則(「本法令」)を公布した。これは、2019年初頭に新たにAP州の政権についた政党の選挙公約だったと言われているが、州境に立地し、隣接州から主要な人材確保を行ってきた工場などに対しては、大幅な人員計画の変更と人員入替に伴う教育コスト等の支出を強いるもので、その経済的な影響は大きい。工場設置時(投資判断時)の具体的状況によっては、本法令は、隣接州からも継続して必要な人材の雇用を確保できるとの投資家の合理的な期待(legitimate expectation)に反する措置、ないし、州全域において一律導入するのは人口分布等の実態に合わない不合理な措置として、日印CEPAの公正衡平待遇違反に当たると主張できる可能性があるように思われる。

 また、本法令を受けて、インド最大の商業都市ムンバイがある西部のマハラシュトラ(Maharashtra)州や、IT産業のハブとして知られるバンガロールのある南部のカルナタカ(Karnataka)州においても、現政権による票固めの一環として、本法令類似の措置の導入が検討されているとの報道もあり、今後影響を受ける日系企業がインド各地に拡大する懸念がある。同様の事態が生じた際も、日印CEPA違反の論点は検討に値するであろう。

 3.インドビジネスにおける活用戦略

 一外国企業が投資受入国を相手に仲裁を提起して「戦いを挑む」にあたっては、特に子会社や工場など同国内に「人質」を取られている状態にある場合や、将来同国において別の新たな投資を行う可能性がある場合には、仲裁提起が今後のビジネス展開に与える影響の検証は避けられない。これまで日系企業による投資仲裁提起事例が限定的であったのは、その影響を慎重に検討してきたことに一因があると思われるが、他方で、投資受入国の不当な行為等による損失を徒に甘受してきたきらいもあるように思われる。前述のとおり、インドは投資仲裁の経験が極めて豊富であり、また、既に日系企業から巨額の損害賠償を求めて仲裁提起がなされた例も存することに鑑みれば、日系企業による投資仲裁申立てに対して、過剰な報復的措置がとられる可能性は低いといえるだろう。

 一方で、日印CEPA違反に基づき仲裁申立ての用意があることは、インド政府との交渉において、日系企業にとって大きなレバレッジになり得る。特にインドにおいては、日印CEPA違反をレバレッジとした交渉は、州政府を相手にするのみならず、その交渉の進捗が思わしくなければ、協定のカウンターパートである連邦政府を巻き込んでそのアカウンタビリティーを問うことができる点において、強力な交渉材料となり得る。州が引き起こした問題について、日印CEPA違反を持ち出して、親日・日本投資促進を政策に掲げる連邦政府を交渉相手にできる点は、頻繁に政権交代があり、政策が不安定となることへの対抗手段として有効である。

 また、一般に多額となる傾向にある投資仲裁遂行に要する弁護士費用、仲裁人費用、仲裁機関への管理費用などについては、これを肩代わりし、賠償金等が得られた場合に一定割合を報酬として受け

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