2020年03月01日
――中曽根さんへの盆暮れは。
内藤: 事務所や。秘書はごっつ多かった。上和田なんていうのは秘書の一番トップですからね、その下で若い…そこをやって国会議員になったのが数人おりますよ。所定の10分前ぐらいにいけば、上和田先生がちゃんと迎えてくれて「上さん来たで。お願いします」「お待ちしておりました。どうぞ」と(中曽根の部屋に)案内される。
(芦原と中曽根は2人で)結構、話をしていますよ。せやね、20~30分は雑談していますわな。(その間は)電話はかかってもつながない。人によって手をたたいて秘書を呼ぶ人もいるが、中曽根は自分で送ってくるタイプではない。部屋からベルを押して秘書を呼んで「お帰りになる」と。中でお送りして。
――中曽根さんは、原発を熱心に推進した。
内藤:もともと、理想論の強い人。夢が大きければ大きいほど、ほころび方も大きい。彼のやったことは素晴らしい面と全くなっていない面とがある。おそらくは日本の原発は正力松太郎が米国から輸入した。正力は中曽根と近かったと思う。あの当時、正力が若い中曽根を呼んだと思う。(14年5月22日、リーガロイヤルホテル大阪ジム)
中曽根も三木同様、自民党の中では傍流の小派閥の領袖だった。政権をとるまで、政界で変わり身早く立ち回り、「風見鶏」と揶揄された。中曽根本人は、その評判を気にしていた。内藤は、中曽根からその悩みを聞き、励ましのアドバイスをしたという。
内藤:(店は)若林かな。私がよく使った赤坂の。向こうがぜひ会いたいと言うから、若林を取っておきましょうと。二人だけで、形ぐらいの食事で、話をした。「どうしたらいいんやろ」と。「風見鶏は何も悪い意味じゃないんですから、時代の先取りと解釈できるわけだからご自分の方から言った方がマスコミが言わなくなるんちゃいますか」とね。
――首相になる前?
内藤:うん。上和田が頼むから、それやったら話しましょうと。夜10時からかな、派閥で会議があったらしいんです。私は知らなかったけど。私は「若林」で話をして、(中曽根を)派閥の会に渡した。あの頃は本当に猪突猛進。ねえ。(14年6月6日、リーガロイヤルホテル大阪ジム)
自民党きっての原発推進派で米国にもパイプがあった中曽根は、日本の原発政策の表裏に通じていたと思われる。その中曽根に、関電や電力業界が何を求め、また中曽根が関電などのために何をしたかについて内藤は一切、語らなかった。しかし、筆者らにこう言って取材を勧めた。
内藤:日本の原発史。中曽根を取材した方がいい。おっさんが嫌がるのもわかるけど、それを話さなければ日本のためになりませんよ、その事実だけを教えて下さいと。(14年6月2日、リーガロイヤルホテル大阪ジム)
内藤が盆暮れの資金提供を明言した首相で当時、存命しているのは中曽根だけだった。筆者は、内藤証言の裏付のため中曽根に事務所を通じて取材を申し入れた。事務所は2014年6月24日、「秘書官は故人で当時をわかる者が事務所にいない。そういうことはなかったと思う。元首相本人は高齢のため確認していない」と回答。筆者はさらに、記事掲載前の同年7月25日まで何度か中曽根本人への取材を事務所に申し入れたが、回答はなかった。内藤には、中曽根側の対応が意外
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください