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検察への監視と民主的統制のあり方 橋下徹氏と吉村知事への反論

検事長定年延長・検察庁法改正の迷走劇を元東京地検特捜部長が斬る④

五十嵐 紀男

 黒川弘務・東京高検検事長(当時)の定年を無理やり延長した上、検察幹部の人事に政治の意向を反映しやすくする検察庁法改定を図るなど、安倍政権が禁断の検察人事に手を突っ込んできている。戦後の自民党一党支配に幕を引き、政界流動化のきっかけともなった金丸信・元自民党副総裁の5億円ヤミ献金事件を摘発した東京地検特捜部で特捜部長として政界捜査を取り仕切った五十嵐紀男弁護士はこうした動きに危機感を抱き、この5月末、「法と経済のジャーナル Asahi Judiciary」編集部に長文の原稿を寄せた。複数回に分けてそれを掲載する。その第4回の本稿は、検察への民主的コントロールや監視のあり方について、日本維新の会の元代表の橋下徹弁護士、同会の副代表の吉村洋文・大阪府知事の主張に五十嵐氏が反論する。(ここまでの文責はAJ編集部)

4 検察権は司法や国民による日常的なチェックにより適正に行使されていること

五十嵐 紀男(いがらし・のりお)五十嵐 紀男(いがらし・のりお)
 1940年生まれ。北海道大学在学中に司法試験合格。64年4月、司法修習生。66年4月、検事任官。東京地検特捜部副部長(財政・経済担当)、公安調査庁総務課長、東京地検総務部長を経て91年1月から2年半、東京地検特捜部長。共和汚職、東京佐川急便事件、金丸ヤミ献金事件、金丸脱税事件などを手がけた。大分、宇都宮、千葉、横浜の各地検の検事正を歴任し99年12月退官。公証人を経て2010年5月に弁護士登録した。
 5月26日、BS-TBSのテレビ番組「報道1930」で、日本維新の会の代表や大阪府知事、大阪市長を歴任した弁護士の橋下徹氏と対談した。

 橋下氏は「国民主権の国では、どんな権力組織も最後は国民によるコントロールに服する仕組みを採用している。国民は政治を通じて適度に検察をコントロールする。検事総長の任命権は内閣にあるので検察も適度に政治によるコントロールを受けるべきである」と述べ、政治と検察の関係は「政治は検察に介入しない」という関係ではなく、「適度な距離感を保つ」関係であると言う。裏を返せば「適度な距離感を保って政治が検察に介入することを認める。」ということになるのだろうか。

検察と政治との距離感の難しさ

 私から見ると、橋下氏のこの言葉で、政治が検察に介入する場面や方法をイメージすることは困難である。「具体的に、内閣はどのようにして検察をコントロールするのか」、この私の質問に対して、橋下氏は、安倍首相や財務省を巡る近時話題の疑惑といわれる事例を挙げ、「こういう疑惑について一件も起訴されていない。日本の裁判の有罪率が99.9パーセントというのはおかしい。もっと起訴する方向で事件処理に当たるように法務大臣が検事総長に話し、大きな方向性を共有するということである。国家公務員については60パーセントくらいの有罪でいい」と答えた。

 なかなか意味深長な発言である。この発言をどう解釈するか。具体的な疑惑事件を例に挙げつつ国家公務員の疑惑について有罪率60パーセントくらいでいいから起訴する方向にもっていくべきだとの発言なのだとすれば、検察庁法14条但書の「法務大臣の指揮権発動」を求めるものと解釈し得る余地があり、穏当でない。ただこの発言の真意が、検察全体の処分が起訴を抑える傾向にあるので、法務大臣と検事総長が話し合い、もっと起訴するという大きな方向性を共有すべきだという前提での発言と見れば、検察庁法14条本文の一般的指揮権に属するということになるであろうか。

 しかし、事件にはそれぞれ個性があるので、国家公務員にかかる犯罪をまとめて画一的に処理できるというものではない。ましてや有罪率60パーセントでいいということは40パーセントという大量の無罪判決を恐れるなということである。起訴して無罪になった被告人の名誉をどのように回復し、その間の失われた人生をどのような形で償うことができるのか。無辜の者を裁判にかけたと検察批判が起こるだけである。

 検察官は、当然のことながら、有罪の証拠を集められない限り起訴に踏みきらない。ゴーン事件でも諸外国から有罪率99パーセントを批判する声があったが、この数字はいかに適正妥当に検察権が行使されているかを証明する事実として、諸外国に対してむしろ誇るべき数字である。日本では、起訴便宜主義の活用もあって、真に処罰に値する者だけを裁判にかけている(起訴している)。だから有罪率が高い。これに対して、犯罪の嫌疑が認められるときは必ず起訴しなければならない起訴法定主義の国にあっては有罪率が低くなるのは必然である。このように前提が違うにもかかわらず、法制度の違う起訴法定主義の国からの批判に、数字だけの比較で軽々に同調し、我が国の検察権の運用を批判するのは、国益を害するだけの大きな誤りである。

特例規定に賛成の吉村大阪府知事と反対の橋下氏、その違いは?

 橋下氏との対談の席上、検察庁法改正問題も取り上げられた。

 この問題について、橋下氏と関係の深い大阪府の吉村洋文知事(日本維新の会副代表)は、検察庁法改正案の特例規定に賛成の立場である。吉村知事は、「検事総長の任命権は内閣にある。検事の人事について検察庁の内部で人事権を持つのはおかしい。政治家は選挙で首にできるが、公務員は首にできない。検察が独善化したら誰がストップをかけるのか。内閣の人事権のやり方がおかしいとなれば、内閣を倒しにかかればいい。」と述べている。

 特例規定に賛成する吉村知事に代表される上記の意見は、一般の国家公務員とは異なる検察官の職務と責任の特殊性に思いを欠いた形式的な建前論であり、また、日常業務において検察とは一線を画す存在である内閣が検察に対して公正かつ適正な人事を行うことを期待できないことについては、先に述べたのでこれ以上の反論はしない。論者に問いたいのは、

  • 検察人事の不介入を順守してきた歴代内閣の実務の運用に検察の独善的暴走を許すような問題があったのか、
  • この先その危険性があるというのか、
  • 特例規定を設けることによって検察人事がどのように改善されるのか、
  • 黒川人事を例に多くの論者や国民が懸念する「検察権の独立」に疑惑を生じさせる危険性の指摘についてどう答えるのか、
  • 検察権の独立など必要ないという見解なのか、
  • 役職のまま定年延長を認める規則ができ上がっていないのに、法案に賛成するのは無責任ではないか(吉村知事は弁護士でもあるから、ご自分で規則の作成に取り組んでみてはどうか。そうすれば、黒川元東京高検検事長の定年延長に適用した現行規則以上に納得できる規則の作成など不可能なことを知るであろう。)

ということである。検察の「独善化」などと耳に心地よいが意味不明の言葉で国民を煽り、建前論を述べるのではなく、もっと掘り下げて問題の核心に迫る実質論を展開すべきではないか。「内閣のやり方がおかしければ内閣を倒しにかかればいい」と言っても、口先で言うほど事は簡単ではなく、これもまた非現実的な建前論にすぎない。

 吉村知事の主張と先ほど見た橋下氏の主張は基本的に似通っているところが多いが、橋下氏は特例規定には反対であるという。その理由は、「検事総長の定年が1年ごとに更新されるというのは弁護士の感覚で違和感がある。法律の出来栄えが悪い」というものだ。BS-TBSの番組では時間がなくてそれ以上に橋下氏の見解を聞くことはできなかったが、同氏のインターネット上での発言を見ると、延長の基準が白紙であること、立法府でしっかりとした議論がされていないことなど、私が指摘した問題点をきちんと把握されていた。そのうえで、役職検察官については3年以内の1回きりの定年延長を認めることで与野党が一致してはどうかと提案している。全役職者をそのままのポストで3年内1回きりの延長を認めるというのであれば、そこに内閣が関与することはないので、役職に就けたままの定年延長を提案した私の意見とも合致する部分があり、納得できる理屈である。

検察権は司法や国民による日常的なチェックにより適正に行使されていること

 検察権の行使は、内閣がチェックしなくても、司法や国民により日常的にチェックされている。建前論を強調する橋下氏や吉村知事らが心配する独善化の余地がないことを説明しよう。結論から言うと、まったく当たり前のことであるが、起訴事件に対する裁判所のチェックと不起訴処分に対する検察審査会のチェックである。

裁判所と検察審査会によるチェック

 検察官は、事件を捜査し、起訴不起訴を決め、起訴した事件の裁判の立ち会いを主たる職務としている。捜査の対象は法律で犯罪とされている事柄に限られ(罪刑法定主義)、刑罰法令に規定されていない事柄について捜査することはできない。捜査についても、犯人の逮捕や家宅捜索といった強制的な捜査を行うには裁判官の発する令状に拠らなければならないなど、刑事訴訟法その他の法律で厳しい制約が課されおり、法律を守らないで得られた証拠は裁判で使えないことになっている。

 捜査した結果、十分な証拠が集められた悪質な事案は起訴することになる。起訴した事件については、第一審の裁判所(多くは、一般市民の裁判員が参加する地方裁判所)において有罪か無罪か、有罪としてどの程度の刑罰を科すかが判決という形で示される。裁判は、慎重を期し、不服のある場合は高裁(控訴審)、更には最高裁(上告審)まで審理を求めることができ、その上有罪判決が確定した者に対しても再審の制度まで用意されている。この一連の裁判を通して検察官の捜査の適否や公判活動の是非が判断されることになる。

 捜査の結果、十分な証拠が集められた事件は全部起訴しなければならないかというとそうではなく、犯人の性格、年齢、境遇、事件の軽重、反省の度合いなどの情状を考慮して、起訴しないこともできる(起訴便宜主義)。諸外国では、捜査した事件は必ず起訴しなければならないとする法制(起訴法定主義)を採用している国が多いが、起訴便宜主義は我が国の歴史、文化、国民感情にかなった法制として広く国民に受け入れられて定着している、世界に誇るべき制度である。

 捜査の結果、有罪にするに足りる証拠は集めたが起訴便宜主義に基づいて起訴猶予にした事件と、有罪にするに足りる証拠を集められなかった事件については不起訴処分とする。検察官が不起訴にした事件の関係者は、その処分に納得できないときは、検察審査会に審査を申し立てることができる。検察審査会は、民意を反映させて検察権の行使の適正を図るために、地方裁判所の各管内に置かれ、一般市民から選ばれた審査員11人が独立して職権を行う機関である。検察審査会は審査の申し立てを受けると、事件記録を精査し、時には関係者から意見を聴くなどして検察官の不起訴処分の当否を判断する。検察官の処分が相当と判断したときは「不起訴処分相当」の議決をし、証拠が十分で起訴する価値があると判断したときは「起訴相当」の議決をし、捜査が不十分であるとか処分が甘い等と判断したときは「不起訴不当」の議決をする。後2者の議決が出たときは、検察官は再捜査しなければならない。「起訴相当」の議決が2度出たときは、当該事件の被疑者については起訴が強制される。

 このように、検察権の行使については、国民の代表である国会議員によって作られた法律に制約され、行使した結果の是非は司法(裁判所)と検察審査会(国民)によって日常的にチェックされている。橋下氏流に言えば、「国民が立法及び司法を通じて民主的に検察をコントロールしている」ということにほかならない。橋下氏や吉村知事らは、検察権の行使が建前論による内閣のコントロールよりもはるかに優れた民主的な制度によってコントロールされていることに、今一度思いを致すべきである。(次回につづく