1940年生まれ。北海道大学在学中に司法試験合格。64年4月、司法修習生。66年4月、検事任官。東京地検特捜部副部長(財政・経済担当)、公安調査庁総務課長、東京地検総務部長を経て91年1月から2年半、東京地検特捜部長。共和汚職、東京佐川急便事件、金丸ヤミ献金事件、金丸脱税事件などを手がけた。大分、宇都宮、千葉、横浜の各地検の検事正を歴任し99年12月退官。公証人を経て2010年から弁護士。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
検事長定年延長・検察庁法改正の迷走劇を元東京地検特捜部長が斬る⑤
▽本連載第1回: 検察官も国家公務員だから内閣の統制に服するべきであるとの建前論では、問題の解決にならないことの理由
▽本連載第2回: 黒川元検事長を定年延長した内閣人事の問題点
▽本連載第3回: 検察庁法改正案が検察に対する国民の信頼を損なうことになる理由
▽本連載第4回: 検察権は司法や国民による日常的なチェックにより適正に行使されていること
▽関連記事: 金丸事件:特捜部長と金庫番が語る20年目の真実
▽関連資料: 国家公務員法等の一部を改正する法律案
思い出されるのは、1992年の東京佐川急便事件で、検察庁の看板にペンキを投げつけられた事件である。5億円の闇献金を受領した元自民党副総裁金丸信氏を罰金20万円の略式裁判の請求という形で処理した検察の処分に抗議した一市民の行動である。
私は東京地検特捜部長としてこの事件の捜査処理を指揮した。東京佐川急便から5億円をもらった金丸氏の違反は、政治資金規正法の量的制限違反に該当し、当時、その法定刑は20万円以下の罰金。禁固刑や懲役刑の定めがない。並行捜査をしていた新潟県の金子清知事の違反は、東京佐川急便から受領した1億円を地元の政治団体等から受領したように政治資金収支報告書にうその記載をした虚偽記載の罪に該当し、法定刑は3年以下の禁錮又は50万円以下の罰金。5億円をもらった金丸氏が略式請求による罰金刑で、1億円をもらった金子知事が公判請求というのは、だれが見ても不公平と思う。しかし、検察の唯一の武器は法律である。法律に定めのないことはできない。金丸氏に対してこういう処分しかできない法律でいいのか、量的制限違反の法定刑を上げ、もっと強い武器(法律)を検察に与えるべきだ、と国民に訴えるため敢えて両者を同時に処分したところ、国民は「法律の不平等」よりも「検察の不平等」ととらえた。
金丸氏の取調べをしないで処分したことも批判された。金丸氏から、弁護士を介して、全面的に事実を認め罰金を払うが、衆人環視の中で検察庁に出頭することだけはできないので、事実を認める上申書の提出で取り調べに代えてほしいとの要請を容れたものである。犯罪事実を認めて刑に服するが検察庁への出頭は嫌だという政治家の気持ちは、法律家の私にはよく理解できなかった。検察としては、最終目的は取調べでなく法定刑の範囲でそれに見合った処分をすることにある。金丸氏の要請を受け、金丸氏の選任した弁護士を介して事実を認める上申書や略式請求手続きに必要な書類の提出を受けて裁判所に法定刑の最高額である罰金20万円の略式命令を請求し、裁判所からその請求どおりの命令が出された。しかし、国民はこれを政治家に対する特別の配慮と解釈し、検察批判が起こった。身内の佐藤道夫札幌高検検事長が、「例えば『上申書が提出されたから』とか『マスコミが大騒ぎしているから』とかで、『検察官の生命』ともいうべき被疑者に対する取調権を放棄するようなことはあり得ない。(中略)特別な人を特別に扱うのは司法の世界で絶対にあってはならぬ」と新聞に投稿したことが一気に検察批判を盛り上げ、ペンキ事件に発展した。国民から検察に対して冷たい逆風が流れた。テレビ画面に映し出されるペンキで汚された「検察庁」の金看板を見るたび、検察の権威の失墜を象徴しているように思われて胸が痛んだ。刑事事件としてはたかだか罰金20万円の事件である。なぜ国民は検察をこんなに批判するのだろう。
佐藤検事長のほか身内の特捜部OBからも批判を受けた。私は、「法律的に見てこの事件処理は妥当であった。自分が元気を出さないと特捜部の士気も上がらない」と考え、「北海道の男は寒風にも逆風にも強いんだ」と言って胸を張っていたが、「可愛げがない」との声も聞こえてきた。私の検事生活で一番辛い時期であった。部下の検察官・検察事務官はもっと辛かったであろう。
「事件の借りは事件で返す」。そんな思いでいたところに、脱税事件捜査の戦友であるマルサ(東京国税局査察部)から、金丸氏に関する極秘情報がもたらされた。数年間にわたって、盆暮れに、多額の割引債券の購入とその乗り換えが行われた経緯を図表化した1枚の用紙である。総金額は30億円を超える。胸が躍った。「俺にはまだツキがある」。捜査の詳細を述べることは避けるが、情報漏れを防ぐため、部長の私が一人でマルサと綿密な検討を加え、ゼネコンからの闇献金を原資とする金丸氏の蓄財であるとの確信を得た。確信を得て初めて信頼できる敏腕のごく少数の部下に打ち明け、極秘捜査を続けた。1993(平成5)年3月6日(土曜日)、金丸氏とかっての秘書生原正久氏を脱税(所得税法違反)で逮捕するとともに、事務所等関係個所を捜索して30億円を超える割引債券の現物などを押収した。特捜部員のほとんど全員が、金丸氏の逮捕を捜索先でテレビ報道で知って驚いた。それほど情報の管理を徹底した。
マスコミにとっても寝耳に水の逮捕劇であった。東京佐川急便を巡る政界捜査は終わったものと受け止めていたからだ。加えて、私の部長としての任期が2年を超えていたため新年度の異動が噂されており、この時期に特捜部が大きな事件に着手することはないと見ていた。テレビや新聞には「衝撃」という言葉が繰り返された。マスコミは特ダネを競う。「特捜部にスクープされた」。ある社のベテラン社会部長の言葉がマスコミの受けた驚きを表している。国民の間にも「衝撃」が走り、国民からの風向きは一気に順風へと変わった。「事件の借りを事件で返した」と実感した。
私は、金丸氏の政治資金規正法違反の捜査処理について、相手が政治家だからと配慮したつもりはまったくなかった。国民は、政治家が検察庁に出頭する映像を見て、政治家も法の軍門に下ったと留飲を下げたかったのであろうか。このようないわばショー的な演出を伴う処分が検察の行う正義の実現に必要だとは考えなかった。法定刑が罰金20万円の事件の処理として、今でも適正であったと思っている。しかし、法律的な妥当性を重視した私(検察)と結論に至る手続きを重視した国民との間に乖離(ギャップ)があったことは明らかである。また、当時、政治・経済・暴力の癒着が問題視され、内閣総理大臣の誕生に暴力団の関与があったと見る政治不信が国民の間に充満していた。検察に対する大きな期待の反動と理解できる。
本稿の第1回に、「検察官は起訴権限を独占している。国民は起訴したくてもできない。検察官は国民に代わって国民のために検察権を行使している。国民の信頼がなければ適正な検察権の行使はできない」と書いた。指導を受けた故伊藤栄樹元検事総長は、常々「検察官は遠山の金さんたれ」と言われていた。国民の気持ちに寄り添う検察権の行使を説いたものだ。金丸5億円事件の処理について国民の批判を浴びたことは国民の気持ちに寄り添った検察権の行使ではなかったということであろう。他方で、国民の気持ちの中身も問われなければならない。先に述べたとおり、検察の唯一の武器は法律である。法律にないことはできない。それを正すのは政治であり教育である。政治に対する不満があるからといって過度に検察に期待するのは危険である。
検察は、これからも、内閣に対してではなく、国民に対して気を遣いながら検察権の行使に当たることになる。
検事、副部長そして部長と10年近く東京地検特捜部で勤務する間に、上司から教えられたことや事件そのものから教えられたことはたくさんある。
ロッキード事件の捜査で主任検事を務めた故・吉永祐介検事(のちに東京地検特捜部長や検事総長を歴任)、同事件で元総理の田中角栄氏の取調を担当した故・石黒
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