2020年10月12日
アンダーソン・毛利・友常法律事務所
山本 庸幸
もう今から40年近く前のことになるが、私は東南アジアでの長く楽しい夢のような勤務を終えて帰国し、通産省に辞令をもらいに行った。すると「特許庁に配属され、工業所有権制度改正審議室長になる」と知らされた。そこで早速その辞令をもって特許庁に行き、「審議室とはどういうところか」と思いつつ、ちょっと顔を出すつもりで部屋のドアを開けた。ところがそこは、まるで魚河岸の中にいるような騒然とした雰囲気で、ゆっくり挨拶をしている間もないほどだった。
折しもその時の審議室は、国会に特許法改正案を出しているところで、しかも翌日に委員会審議を控えているという多忙を極めるときだった。だから、その答弁資料の作成に室員総出でてんてこ舞いの最中だったのである。猫の手も借りたいようだったので、私も、ついついそれに巻き込まれて、気が付いたら、誰かの机に座って資料を作っていた。
結局その日の作業が終わったのは午前2時頃だったが、泊まるところを決めていない。やむなく三鷹方面へ帰る人のタクシーに便乗して、新宿西口で降ろしてもらった。そこの交番で教えてもらったのが、要するにカプセルホテルで、そんな所に初めて泊まる羽目になった。そういう苦労の末にやっと成立させた法律が、昭和60年法改正である。それが一段落してから、やっと東京都杉並区に居を定めて、東南アジアからの引越し荷物を配送してもらい、実家にいた家族を呼び寄せた。
当時の日本国特許庁、アメリカ特許商標庁そしてヨーロッパ特許庁のいわゆる「特許三極」は、特許制度の国際調和(ハーモナイゼーション)という共通の課題に取り組み始めた。私が赴任した頃は、まず審査実務の紹介や審査基準の擦り合わせから始まって、徐々に話し合いを進めつつあるごく初期の段階だった(ちなみに現在では、これに中国国家知識産権局と韓国特許庁が加わって「特許五極」となっている)。
我々の最終目標は、アメリカの先発明主義を先願主義に移行させることである。事あるごとにアメリカ特許商標庁首脳にその話題を振り向け、何らかのきっかけを掴もうとした。特に副長官達とは何回も顔を合わせるうちに親しくなり、フランクに話し合った。すると「自分達も実務上簡単だから、もちろん先願主義の方がよいと思っているし、アメリカのビッグ・ビジネスもそうだ。ところが個人の発明家や中小企業が未だ先発明主義にこだわっており、直ちに変えるのは容易でないが、努力しよう。」とのことだった。
ちなみに、その後、サブマリン特許やパテント・トロールの問題であるとか、先発明主義は特許の有効性があまりにも不確定過ぎるとか、そのための立証にコストがかかり過ぎるとかなどの問題が意識されるようになった。それらがようやくアメリカの特許制度改正に繋がり、平成25年3月16日の出願から先願主義になったのは、慶賀の至りである。それにしても長い時間がかかったと思う。しかしその反面、当初は全く不可能に思えた国際的難題でも、時間をかけて根気よく話し合えば、何とか解決できることを知った。
アメリカ人の交渉スタイルは、最初に「自分達はこういう原則を持っている。」と、それ自体は誰にも文句を付けられないような立派なことを言ってまず反対を封じる。その上で、「従ってこの個別問題はこのように解決すべきだ。」と、自国に有利になるような説明をする。要は、唯我独尊的で、はなはだ我田引水的なのである。
これに対してヨーロッパ人は、特許で博士号をとって30歳を超えて特許庁に入ったような人ばかりで、個々人はまるで学者のような雰囲気である。特許制度の違いはあるが、自分達のヨーロッパ特許庁の制度を手本にする方が最も合理的だと思っている節があった。それもそのはずで、元々ヨーロッパ各国間で相当の違いがあった特許制度を長い期間掛けて擦り合わせ、ついに統一した経験がそう思わせていたのであろう、私が見ても非常に合理的な制度であった。
休日に皆でミュンヘンから古都アウグスブルクに出掛けたのも、良い思い出である。この街は、紀元前15年にローマ皇帝アウグストゥスによって築かれた砦から発展したドイツの中でも最も古い都市の一つである。しかも15世紀から16世紀の中世にかけては、フッガー家などが鉱山と金融業で繁栄した地として知られる。その中世風の街並みが並ぶ石畳の街を、特許三極会合のメンバーとともにそぞろ歩きした。そうすると、いつの間にか全員に、時代や人種や国家を超えた一体感のようなものが芽生えてきた。これは今もって不思議な感覚として私の記憶に強く残っている。
もう一つのヨーロッパでの思い出は、何と言ってもミュンヘンそのものである。バイエルン州の州都にして1972年オリンピック開催地であり、BMWやシーメンスが本社を置いている都市で、マックス・プランク知的財産等研究所、ドイツ博物館があり、かつてはナチス党の根拠地だったことでも知られる。聖母教会を見て、マリエン広場を歩いていると、広場に面して建っている新市庁舎がまるでお城のようで、まさに中世の趣がある。
道行く人たちも、なかなかお洒落だ。ある年配のカップルなどは、男性が緑のチロリアンハットに赤のチョッキと緑の短パン、それに緑と赤縞の長靴下といういでたち、女性は鍔の広い緑のハットに赤のコートというスタイルだ。思わず見とれて、その2人が腕を組んで歩き去る姿を見送った。
長くかかった特許三極会合がようやく終わったある夜、有名なビヤホールのホーフブロイハウスに、私は1人で行ってみた。ここは、かつてアドルフ・ヒットラーがアジ演説を行ったことで知られる。ドアを開けると、そこはまさに飲み屋で、10人ほどが向かい合って座れる細長い木製の重厚なテーブルがたくさん並んでいて、ビールのジョッキを手に手に持った大勢の酔っ払いが談笑し、肩を組み、歌を歌っている。うるさくて声も聞き取れないほどだ。
席に案内されて、細長いテーブルの端に座らせてもらった。そのテーブルは、労働者風の人達で既に一杯だ。申し合わせたように似たような鳥打ち帽を被り、真っ赤な顔になって、もう出来上がっている。私は、小麦のビールをジョッキで1杯と、白いソーセージ(ヴァイス・ヴルスト)を頼んだ。これは、ドイツ・バイエルン州の伝統的なソーセージで、とても美味しい。
私がそれをつまみにしてゆっくりと静かにビールを飲んでいると、向かいの鳥打ち帽が話し掛けて来た。かなりの年配の人である。「ヤパーナー?」つまり日本人かと聞いてきたので、そうだと答えると、片言の英語で「今度、戦争するときは、イタリア抜きでやろう。あんないい加減な連中と組んだから負けちゃったんだ。」などと、物騒なことを言う。私は苦笑するしかなかった。かつてヒットラーがこのミュンヘンの地で一揆を起こしたそうだが、なるほど、その策謀の舞台だけのことはあると思った。
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