群馬大学病院肝臓手術8人死亡④
2020年10月05日
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具体的には、それぞれの好みの手技手法や慣習が並存し、標準化されないために患者の安全が損なわれやすくなること、グループ間に無意識のうちに競争意識や対抗意識が芽生える可能性があり、診療において良好な情報共有や協働関係が築きにくくなること、そのため、グループ毎の診療の質が低下する恐れがあること、などの弊害が起きやすい。これを防ぐために、二つの科の連携を緊密に行い、起こり得る弊害を最小化するための努力が求められる。しかし、群大病院の消化器外科診療においては、二つの外科は同じ北5階病棟に患者を収容しながら、互いに独立した診療体制をとっており、まさに、弊害が長年にわたって改善されないままだった。このことが死亡18事例の発生と、その発覚の遅れにもつながった背景となっていた。
同一診療領域を二つの診療科が担当することによる弊害は、第2外科での一連の手術死が発覚する以前にすでに明らかになっていた。そのきっかけとなったのは、その9年前に第1外科が行った生体肝移植手術で、肝臓の一部を夫に提供したドナーの女性が下半身麻痺になるという医療事故だった。この事故と、その後の調査で明らかになった問題点の背景を突き詰め、診療体制の見直しをしていれば、第2外科で多くの患者が手術死するという事態を防ぐことができたかもしれない。
国内で1989年11月に始まった生体肝移植をめぐっては、2002年8月に京都大学医学部附属病院で行われた移植手術で、娘に肝臓の一部を提供した40歳代の女性が2003年5月に死亡するという事故が起きている。京都大学病院の事故では、原因調査の要請を受けた日本肝移植研究会ドナー安全対策委員会が調査を行い、再発防止のための提言を発表した。それからさほど時を置かずに再びドナーの事故が起きたことから、群馬大学病院の森下靖雄病院長の調査検証依頼を受けた日本肝移植研究会ドナー安全対策委員会が京都大学病院の事故に続いて調査を行い、報告書(2006年12月11日付)をまとめた。
日本肝移植研究会ドナー安全対策委員会はヘパリンの投与量について、血栓を予防するための量としては明らかに過量であったと、群馬大学病院の事故調査専門委員会と同様の結論を出した。また、移植チームがドナーの肺血栓塞栓症予防リスクレベルを「高~最高レベル」と設定したことは「妥当である」とする一方、そのようにリスクの高い人をドナーとした点に「矛盾がある」と指摘した。ドナー事故が起きた生体肝移植手術について、群馬大学病院の「生体部分肝移植に関する倫理審査委員会」は書面(メール)で審査し、20人の委員全員が「承認する」と返事をしていた。日本肝移植研究会ドナー安全対策委員会の調査報告書はその事実に言及したうえで、ドナーの適格性を評価するにあたっては、内科、外科、麻酔科、コーディネーターなど関係者が一堂に集まり討議することを提言した。
2007年2月の筆者の取材に対する群馬大学病院の文書回答によると、群馬大学が生体肝移植に関する審査組織を設置したのは1996年7月で、最初は医学部倫理委員会の下に「適応検討専門委員会」「実施検討専門委員会」「合同専門委員会」の三つの専門委員会を設置した。2003年7月にこれら三つの専門委員会を一本化し、「生体部分肝移植に関する専門委員会」とした。2004年度からは病院長の諮問・審査委員会と位置づけ、「生体部分肝移植に関する倫理審査委員会」と改称した。
2004年4月1日制定の「群馬大学医学部附属病院生体部分肝移植に関する倫理審査委員会規程」には、「本院で行われる生体部分肝移植に関し、病院長から諮問された実施計画について、倫理的・科学的観点から、医学的・社会的適応の有無及び実施に関する適否等について審査する」「会議は、委員の過半数の出席がなければ開くことができない」と記載されていた。
群馬大学病院はドナー事故を機に生体肝移植の実施を見合わせた。さらに、森下病院長を委員長とする「生体部分肝移植実施結果検証委員会」(以下、検証委員会)を設置し、過去に病院で行われた生体肝移植手術の検証を行った。ドナー事故を発表した記者会見で群馬大学病院は、第1外科で行われた生体肝移植が35例で、移植を受けて生存している患者は21例(60%)であることを明らかにしていた。検証委員会は内部委員16人、外部委員1人という構成だった。
検証委員会は、第1外科と第2外科のそれぞれに存在した肝移植チームが実施したすべての生体肝移植手術(第1外科=36回〈35症例〉、第2外科=16回〈16症例〉)について、カルテやICU記録、看護記録をもとに調査した。具体的には、肝臓移植を受ける患者(レシピエント)の手術成績の指標となる病院死亡(移植後退院することなく群馬大学病院で死亡した患者と移植後短期間で他の病院に転院し、短期間で群馬大学病院に再入院して亡くなった患者)と輸血量を調べた。一方、肝臓の一部を提供したドナーについては、手術時間、出血量、入院期間、合併症の有無を調べた。
群馬大学病院は2006年12月13日、森下病院長や野島美久病院長補佐(医療安全管理室長)らが記者会見を行い、調査結果を発表した。それによると、レシピエント全体の病院死亡率は35.3%(51人中18人)だった。第1外科が35人中14人死亡、第2外科が16人中4人死亡で、統計的には有意でないものの、第1外科の死亡率が高い傾向がみられた。レシピエントの血清総ビリルビンや血清クレアチニン、血液凝固能などの数値から計算し、肝疾患の重症度を判定するのに用いるMELDスコアが25以上の割合は、第1外科が40%(14/35)、第2外科が25%(4/16)で、統計的に有意ではないが第1外科で多い傾向にあった。レシピエント1症例当たりの平均輸血量は第1外科が12.5㍑、第2外科が3.6㍑で、第1外科は第2外科の約3・5倍だった。病院死亡例に限ると、第1外科は17.3㍑で、第2外科の4.8倍だった。第2外科は病院死亡例と生存例で輸血量に差がなかった。
また、ドナーの平均輸血量も第1外科で有意に多く、自己血以外の輸血を必要とする確率が高くなる1500㍉リットル以上の術中出血があった症例が6例(17%)存在した。これは、日本肝移植研究会による全国集計でのドナーに対する日赤血輸血の割合(1.1%)と比較してかなり高い数値だった。
このほか、同意書の診療録への添付が確認できない症例が少なからずあった。報告書は「画一的な同意書に対して、それを補完すべき個別的な説明内容の診療記録が不可欠と思われるが、両診療科ともこの点は不十分であった」と指摘した。第1外科のホームページに、術者の手術成績や手術経験件数について不適切な表現があることもわかった。
調査報告書は、以下のような「結語」で締めくくられている(下線は筆者による)。
附属病院で施行された生体部分肝移植51症例の病院死亡率は35.3%と高かった。その主たる要因は第一外科の成績が不良であることと考えられる。第一外科ではMELD高値や血液型不適合移植などの予後不良症例が多いことが背景因子として考えられるが、術中出血の多さに象徴される技術の未熟性も関与した可能性がある。特にドナーの合併症や出血量が多かったという事実は看過できない。なぜなら、レシピエントの手術と異なり、ドナーの手術は、個々に難度が大きく異なるということはないからである。生体肝移植の最大の問題点は、肝切除を受けて部分肝を提供し肉親を救命しようとする崇高な意思を持つドナーが100%安全ではないということである。それ故、医療側はその肝切除に際して豊富な経験に基づく精緻な技術と知識を持つことが基本的要件であると考えられる。残念ながら、この点において、第一外科の生体肝移植を担当するチームは基本的要件を十分には満たしていない部分があったと推察される。また、不正確もしくは曖昧な移植成績および手術経験件数表示の問題は、いずれもインフォームドコンセントの根幹を揺るがすものである。真摯に反省し、生体肝移植再開時には必ず是正すべき点である。
最後に、同一施設で別個の医療チームが生体肝移植を担当することは、日本国内ばかりでなく欧米においてもほとんど例を見ない。本院における診療体制の抜本的な再構築なくしては移植再開の道は開き難い。
開示文書の中には、大学作成の記者会見記録もあった。それによると、会見の冒頭、野島病院長補佐が検証結果を説明した後、森下病院長が今後の方針を説明している。森下病院長が示した方針は次の5点だった。
会見では、執刀医の経験に関する第1外科ホームページの記載内容に問題があったことに対する質問が出されたが、病院側は、執刀医が米国の大学での移植手術にどのような形で関与したかは確認できていないと答えた。この問題は後日、別の調査委員会が調べることになるので、その結果については後述する。
会見記録によれば、第1外科と第2外科で別々に生体肝移植をやっていた理由を尋ねる質問も出されたが、病院側は「歴史的な背景から、また、消化器外科の需要が多かったということから2つの科に存在した」と説明するにとどまった。
筆者は当時、生体肝移植を同じ病院内の別々の移植チームが行っていたことに強い関心を持った。それに関する検証委員会報告書の記述が「日本国内ばかりでなく欧米においてもほとんど例を見ない」という事実の指摘にとどまり、その理由にまったく触れていないことが気になった。異例の診療体制が長年放置されてきた背景を解明しない限り、改革は難しいのではないかという疑問を持った筆者は、記者会見から約2週後、群馬大学病院の森下病院長に取材を申し入れた。
森下病院長への取材とその後の書面による質問に対する群馬大学病院の回答によると、群馬大学病院で初めて生体肝移植が行われたのは、1999年10月で、実施したのは第2外科だった。心臓血管外科が専門で鹿児島大学助教授だった森下氏が1991年に第2外科教授に就任した後、生体肝移植実施の準備を始め、この治療の拠点施設だった京都大学などに医師を送り、研修を受けさせた。さらに、田中紘一京都大学教授(当時)に直接指導を依頼した。「少なくとも30例を経験し、妥当な成績を得られるまではわが国の第一人者である田中先生の指導を仰ぐべきである」という森下氏の考えに基づき、当初は田中氏自身が執刀していた。
日本における生体肝移植は1992年8月から1998年3月まで、診察、検査、入院の費用などに公的医療保険が適用される高度先進医療(現在の先進医療)として行われ、1998年に公的医療保険が全面適用された。保険が適用される対象疾患は当初、先天性胆道閉鎖症や肝硬変など7疾患で、肝硬変と劇症肝炎については対象年齢が15歳以下に限定されていた。2004年1月に保険が適用される疾患が9疾患に拡大され、肝硬変と劇症肝炎の年齢制限が撤廃された。
前述した群馬大学病院の最初の生体肝移植手術が行われたのは、生体肝移植に公的医療保険が適用された1年半後のことだった。第2外科は一例目を実施した後の2000年~2001年に生体肝移植手術を行っていないが、その間、第1外科が2000年9月に診療科として最初の生体肝移植手術を行った。第1外科では九州大学助教授だった桑野博行氏が1998年に教授となり、肝臓移植の研修を受けた医師を九州大学から迎え入れるなどして準備をした。
このように、第1外科は九州大学、第2外科は京都大学の支援を受けて別々に生体肝移植を行っていたわけだが、なぜ第1外科がすでに先行していた第2外科と別に生体肝移植に踏み切ったのか。2007年の取材時、森下病院長は筆者に対し、「生体肝移植は一つの治療オプションであり、治せる治療法としてあるのにできないということは消化器を中心とする外科の教授として言えなかったのではないか。それで母校から経験者を招いたのではないかと思う」と答えた。後日、第1外科の桑野教授自身に生体肝移植を始めた理由を確認してほしいと求めたところ、群馬大学病院は書面で次のように回答した(元号表記の後の西暦は筆者が書き加えた)。
平成12年(2000年)9月、患者さん並びにご家族から群馬県内で小児の肝移植術を希望する声が高まり、その期待に応えるため第一外科に常勤する移植医、肝臓外科医及び小児科医でチーム編成を行った上で群馬における移植医療の定着を目指し第一外科で生体肝移植を開始することになりました。その後紹介も増し成人例も開始しました。
なお、第一外科ではその発足時から消化器外科に加え小児外科を担当しており、胆道閉鎖症児の診療にも積極的に当たってきました。その中には生体肝移植を必要とする症例が少なからずありましたが、それまで群馬県内では移植を受けられず、他県へ赴いて手術を受けなければなりませんでした。
いずれにしろ、群馬県内における地域貢献の観点も含め、さまざまな病態の患者さんに対応すべく群馬県での移植医療の定着を目標に群馬大学常勤のスタッフを中心とした医療体制の確立に努力致しました。
病院内には二つの外科が別々に生体肝移植を行うことに異論もあった。生体肝移植に関する倫理審査委員会において内科医が、移植手術の対象となる患者の選定基準が二つの科で異なっていることを指摘し、「一本化してくれた方が患者を紹介しやすい」と述べたことがあったという。これは筆者の取材に対し、森下病院長が明らかにしたエピソードである。森下病院長は1996年7月から2004年3月まで、生体肝移植の倫理審査を担当する委員会の一員だった。仮にこのエピソードが事実だとすると、移植
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