メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

news letter
RSS

無料

事故原発に首相、作業員「怒ってるよ、菅直人、何しに?」

福島第一原発の事故現場回想(1)

奥山 俊宏

 大手電機設備会社の社員として長年にわたって東京電力の原発で働いてきた彼は、2011年3月11日から15日にかけて事態が悪化しつつある福島第一原発の現場で3回にわたる爆発に遭遇した。1号機の爆発は「パカーン!」という軽い音。3号機の爆発はそれとまったく異なり、「もっと速い、ダンッ!みたい」な音。4号機の爆発は「地下を伝わってくるような感じの、ズンッていう感じ」の音。2012年2月、彼は、福島県いわき市内で、編集者の久田将義氏と朝日新聞記者の奥山俊宏のインタビューを受け、1年弱前の記憶をたどった。記事にしない前提のインタビューだったが、このほど、事故発生10年を前にその前提を解除。氏名や勤務先の会社名を伏せた上でインタビューの内容を公にすることに彼は同意した。福島第一原発で発生した3回の建屋爆発に遭遇した人による、3回の爆発音の質を比較しての、ここまで具体的な体験談は他に見当たらない。現在、久田氏はウェブサイト「TABLO(注1)」の編集長を務め、奥山は朝日新聞の編集委員としてウェブサイト「法と経済のジャーナル Asahi Judiciary(注2)」の編集に携わっており、このインタビューの内容をそれらのメディアで一斉に発信することにした。本稿はその第1回。

14日夜から最悪の15日朝まで

拡大事故発生直後の福島第一原発の1号機(左端)、2号機、3号機、4号機(右端)=2011年3月15日朝、免震重要棟のある高台で東京電力社員が撮影し、翌16日午前に同社が記者団に提供した画像
拡大事故発生5年前の福島第一原発の1号機(左端)、2号機、3号機、4号機(右端)=2006年4月28日、朝日新聞・友清裕昭撮影
 福島第一原発が最悪の事態に至ったのは2011年3月15日朝のことだった。同原発構内にある免震重要棟に彼やその同僚は3月11日から詰めていたが、15日朝、ついにそこを去ることになった。

 そのときの経緯について、彼は2012年2月29日夜、JRいわき駅前の居酒屋で次のように振り返った。インタビューでは、彼が勤務する会社の名前や彼自身の名前を出して会話したが、この原稿では彼の名前を「マサ」とし、会社名を「A社」と仮名にする。

 奥山:15日は何時くらいまでいらしたんですか?

 マサ:逃げた日が15日なんで、15日は朝がたに解放状態です。15日朝に「いったん福島第二のほうにみんな避難してくれ」という話だったんで、おのおの、各会社で。そのときにはうちの人間て3人しか残ってなかったんで、その3人で。
 15日(に福島第一原発にいたの)は朝だけですね。朝、そういうふうに言われてすぐ2Fに行っちゃったので。

 東電関係者の間では、福島第二原発のことを「2F(にえふ)」と呼び、福島第一原発のことを「1F(いちえふ)」と呼ぶ。彼は3月15日朝、福島第一原発(1F)から12キロほど南にある福島第二原発(2F)へと避難した。

 奥山:それは何時くらいか覚えておられますか。

 マサ:朝ですね、ほんとに朝。

 奥山:きっかけみたいなのは何かあったか覚えておられますか。

 マサ:14日の晩の時点でもう「ちょっと今の状況で、やることがない」。とりあえず、14日の晩に第一弾で、「今いる人数は必要ないんで、ちょっと選別して、連絡員とかそういう人は残ってほしいんだけど、全部はもう、いる必要がないんで」ということで、14日の晩にいったん解散してるんですよ。
 で、だけれども、だれもいなくなるわけにはいかないんで、14日の晩から15日の朝まで(A社で)残ったのが3人だけなんです。

 奥山:14日の晩までは何人くらいいらしたんですか。

 マサ:11日から14日の晩までは随時、避難バスみたいなのが出てたんで、体調が悪くなった人間や家庭の事情やいろんな人間で、最初にいた人間からどんどん減っていくんですけど、14日の晩の時点では、どのくらいいたのかな? 8人くらいかなぁ?

 奥山:これはA社(彼が勤めていた設備会社)全体でということなんですか、それともマサさん(インタビューを受けている彼)の班で、ということですか。

 マサ:彼らは別に、一緒には仕事していないんで、ぼくのA社の元請けとして下に使っている会社も含めて確か8人くらい。

 奥山:それが14日の夜の段階で3人まで減った?

 マサ:そうです。14日の夜にほかの人は避難して3人だけが残って。で、15日の朝を迎えたらすぐ、「いま、線量が高い。危ない状況なんでいったん2Fに行ってください」という話で。もうすぐ朝に。8時か8時半くらいかなぁ。

 奥山:そのときは何号機(が原因)ということだったんですか。

 マサ:そのときはたぶん14日の晩に、2号機の爆発? あれはよく分からないですねぇ。みんな4号と言ってるんですけど、そのときの情報は「2号のサプチャンが爆発した」という話で、そのときはぼくらも音だけは聞いてるんですよ。免震棟にいて。ズシーンという音がしたんで、「これは地震じゃないだろう」という感じで。で、そのまま朝を迎えたら、「避難の準備をしてください」。詳細は伝わってないんですけど。

 ここで彼は「14日の晩」と述べているが、正しくは15日午前6時12分のできごとを指しているのだと思われる。その時間に4号機の原子炉建屋が水素爆発を起こしたことが判明するのは後のことで、当時、福島第一原発敷地内の屋外でそれを目撃した人はおらず、東電社内では、4号機ではなく、2号機の原子炉格納容器サプレッションチェンバー(圧力抑制室)で午前6時14分に爆発が起きた、と情報が伝わった。サプレッションチェンバーのことを略して「サプチャン」と呼ぶ。

 奥山:15日朝の音は1回ですか?

 マサ:1回ですね。

 奥山:6時過ぎということになってますよね。

 マサ:そうです。寝てて、朝がた、その音でみんな起きて、それから2時間くらいしてるうちに、「いったん避難しますんで、準備をしてちょっと待ってください」ということで。そうこうしているうちに「随時、各社で、行ける車で、とりあえず2Fまで行ってください」。

 奥山:「だれが残る」という話はそのとき何か聞いてますか。

 マサ:どっちですか。14日の晩ですか?

 奥山:15日。

 マサ:15日はもう、東京電力以外はみんな避難です。東京電力もある程度の人たちはみんな避難です。いわゆるフィフティーと呼ばれている人たちだけ、が残ってる状態。でも、それがだれが残ったとかどういう人たちが残ったとかはぼくらは情報ないんで、分からないんですけど、ある程度、ぼくらの担当しているお客さんなんかも東京電力さんなんかも逃げてますからその時点ではみんな。もうほとんどの人が逃げてますから。

 この15日朝、午前8時35分に東京電力本店で始まった記者会見で、東電は次のとおり発表した。

 本日、午前6時14分頃、福島第一原子力発電所2号機の圧力抑制室付近で異音が発生するとともに、同室内の圧力が低下したことから、同室で何らかの異常が発生した可能性があると判断しました。今後とも、原子炉圧力容器への注水作業を全力で継続してまいりますが、同作業に直接関わりのない協力企業作業員および当社職員を一時的に同発電所の安全な場所などへ移動開始しました(注3)

 この記者会見で、「現場に何人いるんですか?」という質問に対して、原子力設備管理部の黒田光課長(当時)は「正確な数字は分かりませんけど、50人程度プラス・アルファぐらいだという情報があります」と答えた。同日午後3時44分に始まった東電本店の記者会見で、黒田課長は「残ったのが五十数名というふうに聞いていて」「750人くらいが退避をして、五十数名が残ったということでございました」と説明した。

 3月15日朝、多くの人が避難した後になお福島第一原発に残った人々について、やがて海外メディアを中心に「フクシマ・フィフティー」と呼ばれるようになった。

 奥山:ふだんは重要免震棟の中に詰めておられるんですか?

 マサ:いえいえ、あの施設自体は震災の起こる前の年の秋にできたばっかりなんで。そこはふだんだれもいないというか。何かあったときのための設備なんで、だれもいないんです。ぼくらもふつうに構内の自分の事務所で業務をしてるんで。そこの中にいたっていうのは、11日の晩に「もう線量が上がってるんで、みんな構内の人は入ってください」っていう話になったんで、そこから5日間そのまま。

 奥山:あの建物(免震重要棟)の中では吉田所長以下がいるラウンドテーブル、あそこの周りにシマがあるんですよねぇ。

 そのとき福島第一原発の所長を務めていたのは東京電力の執行役員でもあった吉田昌郎氏。3月11日に震災が発生して以降、吉田氏は、免震重要棟の2階にある緊急時対策室に陣取り、対応を指揮した。

 マサ:そこらへんは全部東京電力さんで。ぼくら請負業者は…、その中のテーブルがあって、いっぱいいますよね。もうひとつ、その脇に部屋がいろいろ会議室とかいろんなのがあって、そこを割り当てられたというか。自分たちでスペースを見つけて、そこに収まって。11日の晩からずっとそこに、「A社はここで」みたいな感じでそこにいて。で、随時、お客さんが「あれやってくれ、これやってくれ」っていうのを言いにきてっていうような状況です。

 奥山:中のやり取りっていうのは聞こえたり見えたりするものなんですか?

 マサ:いや、あそこはほとんど中心ですけど、別室みたいな感じになってるので。ぼくらは「入らないでくれ」とか、そういうことは言われてはいないんですけど、基本的に入らないですね。

 奥山:15日の朝、「2Fに行ってください」っていうのは、部屋に東電の人かなんかが来て?

 マサ:そうですね。

 奥山:理由としては「線量が上がってるんで」っていうことなんですか?

 マサ:「線量が上がってるんで」、そうですね。一応みんな、とりあえず、「本当に重要な運転の人を残して、とりあえず退避することになったんで」っていうお話で。

 奥山:「残して」っていうのは言ってたんですね?

 マサ:そうですね。全部退去じゃなくて。

 奥山:所長とか一部を除いて全員退去って話が前の晩(14日夜)というかその日(15日)の未明から総理大臣官邸でゴチャゴチャあったっていう話なんですけど、そういう話は何か。

 マサ:あれねぇ、たぶんねぇ、ぼくの感覚ですけど、本当の全員退避、言葉どおりの全員退避って、出てないと思うんです。吉田所長以下、何十名かは「も、すべて退避」っていう話は、たぶん出てないと思うんです。

 奥山:逆に、「残れ」と言われた人というのが見当たらないんですけど…

 マサ:うーん……。

 奥山:結果的に50人、みんなボランティアで残ったみたいなんですけど、「残れ」って言われて残った人っているのかなって、ちょっと疑問に思ってるんですけど。

 マサ:そこはあれなんでしょうねぇ、きっと。これも想像ですけど、「人情」的なものだと思うんですよ。きれいに言えば使命感みたいなものかもしれないですけど。東京電力の中でも、自分の今の立場、たとえば、東京電力の中でも末端の保安員と、保安要員の人と、それから部長クラスの人間とかは考え方が違うだろうし。そこの人間がやっぱり命令的に「残れ」って言われて残るとか、そういうことではないと思うんですよね。

11日午後、地震と津波が発生

 2012年2月29日にインタビューを受けた時点で彼は40歳台後半。福島県外出身で、高校を卒業して電気設備会社A社に入った。

 振り出しは福島第一原発。その後、新潟県の柏崎刈羽原発に転勤し、再び福島第一に戻ってきた。福島第一原発での勤務が通算で20年ほどだった2011年3月11日。午後2時46分に東北地方太平洋沖地震は発生した。震源は福島第一原発から180キロ離れた三陸沖の太平洋の地底で、マグニチュードは9だった。

 奥山:地震のときはどちらにいらして、どんな?

 マサ:ぼくは11日の午後は事務所にいたんで。事務所はプレハブじゃないんですけど、そんなにしっかりした建物ではない3階建ての3階にいたんで、揺れはすごかったですね。

 奥山:ふだんのお仕事的には、定期検査中のところの電気関係が主な。

 マサ:そうですね、うちは、電気関係のことをとりあえずすべてにおいて。同じ業種の業者もいますんで、そこらへんを棲み分けする感じで、何号機はどこ、何号機はどこ、みたいな感じでずっと棲み分けができてるんで。その中で。やっぱり1F(いちえふ)ってもうできてるものなので、そういうメンテナンス的な要素しかないんですよね、仕事的に。あと改造と。改造とメンテナンスしかないんで。

 奥山:地震が起こったあと、津波が来た。それはどういうふうにして知りました?

 マサ:現場に行ってた人間がいて。その人間たちが徒歩で海岸のほうからずうっと上がってきて、「すげえことになってる」と。ぼくは見てないんですけど。事務所はけっこう高台のほうにあって。下のほうの現場に行ってた人間が徒歩で上がってきて、「すげえことになってる」と。

 奥山:事務所は、協力企業が集まってるセンターみたいなところに?

 マサ:そうですね、そういう企業棟というのが。

 奥山:内陸側のほうに?

 マサ:そうです。

 奥山:そこに現場から戻ってこられて?

 マサ:そうです。

 奥山:4時過ぎぐらい、夕方ぐらいに?

 マサ:そうですね。

 奥山:それは津波ですごいことになってる、と。

 マサ:そうです。

 奥山:覚えてる言葉とか印象に残ってることは?

 マサ:いや、やっぱり現場の人間は、あんだけの時間差があってよかった。津波が来るまで30分ぐらいありましたよね。地震で動けなかったけれども、とりあえず様子見てるうちに海がこう来るんで、「ヤバい、ヤバい!」って上がってきて。で、高台にいて、なおかつちょっと様子見てるときに、今度第2波。
 第2波は今度もっとデカいのが。もうそのときには、うしろも見ずに帰ってきたって言ってましたね。

 福島第一原発の1.5キロ沖合に設置された波高計によれば、津波の第1波は午後3時15分ごろに始まり、なだらかに高まって午後3時27分ごろに高さ4メートルほどのピークに達した。いったん波高は低くなったものの、午後3時33分ごろから再び急上昇し、これが第2波となった。波高計は午後3時35分に測定限界の7.5メートルを超える津波で破損(注4)。TBSテレビの映像記録によれば、午後3時36分22秒、福島第一原発の建屋(おそらく4号機のタービン建屋)に津波が激突し、波しぶきが垂直に立ち上がって建屋の高さを大きく超える様子が、福島県富岡町の小良ケ浜(おらがはま)の岬にテレビユー福島が設けていた「お天気カメラ」(定点の情報カメラ)によってとらえられている(注5)

 奥山:そのあと重要免震棟に行くわけですか。

 マサ:11日の午後2時何分に(地震が)あって、そのままホントは「帰れる人は帰っていいよ」っていう話があったんですけど、ぼくらも当然、そういうことがあれば、このあと「復旧やらなきゃいけないね」っていうのがあるんで。会社としても、ある程度の人数は残さなきゃいけないし。指示があったというか、そのときに全、構内から全部の人たちが出ていこうとしてるんで、渋滞でどうしようもないんです。だから、「そんなにあわてて出なくてもいいんじゃない?」って思ってて。きっと復旧っていう話にもなるし。ぼくもそれを「関係ない」って言える立場ではないんで。「とりあえずちょっと様子見て」って言ってるうちに、やっぱりお客さんのほうから「これから復旧やらなきゃいけないんで、とりあえずある程度の人数と、仕事ができる作業員をちょっと残してくんねぇか。連絡がとれるようにしてくれねぇか」っていう話になったんで、そう言われちゃうと帰れないですよね。

 奥山:「お客さん」というのは東電ですよね。

 マサ:そうです。

 奥山:それは当日(3月11日)の夕方?

 マサ:そうです、4時、5時ぐらいですね。

11日夜、中央制御室に照明を仮設

 彼によれば、2011年3月11日午後に震災が発生した当初は「今夜徹夜すれば帰れるかな」というような気持ちだったという。しかし、津波被害は彼の認識よりはるかに深刻だった。

 2012年2月15日にいわき市内の居酒屋で久田氏のインタビューを受けた際、彼は、前年3月11日の夕方から夜にかけての出来事について次のように振り返った。

 久田:11日は避難されたんですか?

 マサ:いや、避難してないです、そのまま。そうこうしてるうちに、お客さんから、東京電力から「対応しなきゃいけないから、待っててくれ」という連絡がきて。そうすると、うちの会社として、誰が残るか、何人残るかっていうのを、所長をはじめ。そういう話がくるのはわかってたんで。

 久田:復旧作業っていうことですか?

 マサ:そうそうそう、これだけの地震だったから、絶対どっかイカれてるんで。それに対しての復旧作業は絶対あるな、と。

 久田:その時点でメルトダウンとか考えられました?

 マサ:全然考えてないです。だってもう、「今夜徹夜すれば帰れるな」ぐらいの気持ちですもん、気持ち的には。やっぱりそこで津波を想定してないですからね。地震でガチャガチャになっちゃっただけだなと思ってるから。

 久田:一番デカいのはやっぱり津波ですか。

 マサ:そのあと津波が来て、電源全部ダメっていうふうになったあとですよね。

 久田:46分から30分とかそのぐらい後に津波が来て、これはヤバい、みたいな感じになった。

 マサ:それから、でも、「待機しててくれ」っていうことで、それが4時ぐらいで、で、実際に動き出したのは夜7時とか、たぶんそのくらいの時間なんです。ずっと待機してて。それまでいっぱい電話、連絡がかかってきて、「バッテリーはねぇか?」とか、「発電機はないか?」とか、「ケーブルはないか?」とか、そういうのがうちの会社にどのぐらいあるのかを調べてて。そういうのでずっと、それをやってて。実際に動き出したのは、その日の夜7時ぐらいに一番最初の、その、向こうから来た依頼が、各その中央制御室の電気が全部消えちゃったんで、それの…

 久田:津波で?

 マサ:そうです。電源もそのときに全部なくなっちゃってるので。とりあえず中操が、中央制御室が明るくないと、どうにもならないんで、まずその照明を生かしてよと。

 久田:中央制御室が真っ暗だった?

 マサ:そう、真っ暗なんで、仮設でとりあえず生かしてくれっていうことで。

 久田:その真っ暗をなんとかしろっていう作業をされた?

 マサ:そうです。

 久田:それは夜7時過ぎぐらい?

 マサ:たぶん夜7時くらいか、そのぐらいだったと思うんですけどねぇ。

 久田:その時点では津波が来てるわけじゃないですか。13メートルとか10メートルとか言われてるわけですけども、そこで電力が全部止まってしまったので、それによって、これは地震じゃ済まないな、みたいな認識はお持ちだったんですか?

 マサ:そうですよ。その時点では「電源どこも生きてないよ」っていう話で、「中操、全部電気消えてるよ」っていう話はもうきてたんで。

 久田:そうすると、放射線とかがどうなるのかなとか、そこまでは考えてなかったですか?

 マサ:そこまでは考えてないですね。

 久田:これは3月11日の夜の話ですよね。

 マサ:そうですね。

 久田:中央制御室ってべつに電気が戻ったわけではないですよね。

 マサ:戻ってないです。仮設でエンジン発電機。エンジン発電機を外に置いて、で、そこからケーブルを引っ張って中央制御室に照明をつけて。エンジン回して。

 久田:それは○○工業とかA社さんとか、みなさんでやられたんですか?

 マサ:うちだけですね、それは。

 久田:そのときに残られたのは、東電のかたとあと何人ぐらいいらっしゃったんですか?

 マサ:ぼくらは、何人いたかなぁ、当初。うちの社員が10人ぐらい。で、うちの協力企業の人が10人ぐらいかなぁ。

 久田:11日から退避命令が出る15日まではどういう作業をされてたんですか?

 マサ:11日の夜に中央制御室の電気をつけにいって、でもう、その日の夜遅くに周辺の放射線量が上がってるんで、「みんな自分の事務所にいないで、免震棟に集まってくれ」っていうことで、各業者の残ってる人全員。

 久田:そのときは600人ぐらいですか?

 マサ:そのときはもっといたと思います。だって事務員の人も女の人もいたし。逃げ遅れたというか、帰れなかった人たちが。

 久田:免震棟というのはマグニチュード10ぐらいでも大丈夫な感じの。柏崎の勉強を経てという感じで。そのときは線量とか考えたことありました?

 マサ:だから線量が上がってるって言われて。それまでは全然意識なくて。「上がってる」と言われて免震棟に集まれって言われたんで、そうなのかっていう。

 久田:電力のほうから、「線量が上がってる」と。

 マサ:そうです。周辺線量が上がってるんで。

 久田:免震棟って結構デカいわけですね。

 マサ:デカいんだけど、2階建ての事務所なんだけど、そのときは廊下から階段から全部人がいるような感じで。空いてるところにはすべて人がいるような状況。

 久田:700人ぐらい。

 マサ:いや、700じゃ足りないと思います。

 久田:1000人ぐらい。

 マサ:たぶんそのときは。で、15日までにどんどんどんどん減っていくんですよ、保守に関係ない人たちが。東電がバスを用意して、随時退避させてって。

 久田:事務員とか女性とかを。

 マサ:はい、関係ない人を。

 久田:千人くらい免震棟にいたのが750人くらいになった?

 マサ:たぶんそうですね、ずっとみんな帰してたから。

 久田:それは3月15日ぐらいですかね。

 マサ:3月11日の晩にその仕事を一個やって、その日はそれしかなかったんです、うちやることは。

 久田:で、泊まったところは免震棟?

 マサ:そう、免震棟です。で、何ごともなくというか。そのまま次の日の朝に、今度は「1号機のほうにいってくれ」と。

12日朝、1号機消火系ポンプ復旧を試みる

 津波の第2波は、1~4号機の原子炉建屋やタービン建屋がある高さ10メートルの敷地に達し、それら建屋の内部に侵入した。1~4号機には8台の非常用ディーゼル発電機(DG)があり、点検中の1台を除く7台が地震直後に自動起動していたが、第2波から間もなくすべて機能を停止した。このうち共用プール建屋1階にあった2台のDGは直接には津波の被害を受けなかったが、付属する地下の高圧電源盤が水没し、やはり使用不能になった。このようにして1~5号機は交流電源を全喪失し、いわば停電となった。それだけでなく、1、2、4号機では地下1階の直流電源盤も水没し、全電源喪失状態となった。3号機の直流電源盤は中地下階にあって被害を免れた。現地対策本部が設置された免震重要棟は高さ35メートルの高台にあり、無事だった。

 彼は2012年2月29日のインタビューの際に次のように答えた。

 奥山:その当時(3月11日午後4時、5時当時)、たとえば非常用ディーゼル発電機(DG)がダメだということは分かってたんですか?

 マサ:いや、情報ないです。全然ないです。

 奥山:そういうことはどのぐらいから分かってくるものなんですか。

 マサ:それは次の日の12日の朝になって、ぼくらが東電から指示を受けたのは、「とりあえず消火系のポンプを回したい」と。そのために、――でも電源いかれてるんで――それはバッテリー持ってるんで、バッテリーを生かしたい、と。1回水に浸かってるバッテリーを。だからバッテリーをつないでくれないかっていう仕事があって。その打ち合わせをしてるときに「DGがダメになった」。だからもう水がない。水を動かすには消火ポンプ系しかない、今は。でも消火ポンプ系も電源がないんで。そうするとバッテリー持ってるから、そのバッテリーでいきたい。それを生かしてほしいっていう話があって、知りましたね、そのときに。「ああ、DGダメなんだ」って。

 奥山:1号機の話ですね?

 マサ:それは1号機。

 奥山:それは12日の朝?

 マサ:12日の朝に指示を受けて、1号機の消火ポンプのバッテリーを復旧しにいった。

 奥山:地絡してたんですよねぇ?

 マサ:1回水に浸かってるんで。使えない状況だったんです。

 奥山:前の日(3月11日)の夕方とか、夜の早い時間帯には回ってたという?

 マサ:回ったっていう噂はあるんですけどね、よくわからないです。バッテリー駆動でエンジンキー回したら回ったっていう話もあるんですけど。そこらへんはあまり。情報が…

 奥山:東電の出した報告書を見ると、1号機のディーゼル消火ポンプは回ってたけど、夜中に見ると止まってた、という話になっている。

 ディーゼル駆動消火ポンプ(Diesel-driven Fire Pump、D/D FP)は、施設内で発生した火災を消すため、濾過(ろか)水タンクの水を勢いよく噴出させられるようエンジンで水圧を上げるのを目的に、1号機ではタービン建屋地下階の消火系ポンプ室に備え付けられていた。過酷事故に備えるアクシデントマネジメントでは、火災の消火だけではなく、原子炉内への代替注水にも使用できる、と計画されていた。3月11日午後5時半、電動ポンプは津波のためか使用不能だったが、1号機のディーゼル駆動消火ポンプについては、運転員が故障復帰操作をしたところ、自動起動。少なくともこの時点では使用可能だった。中央制御室ではこのポンプを用いて原子炉に注水しようと考え、ポンプにつながる配管のバルブを手動であけて、午後8時50分にかけて注水ラインを構成した。ただし、当時、原子炉内の圧力は6.9メガパスカルで、消火ポンプで注水するには炉圧が高すぎる状況だった(注6)。しばらく待機状態とされた。

 日付が変わって12日午前1時48分、ディーゼル駆動消火ポンプが燃料切れで停止しているのが確認された。このため、タンクに燃料を補給し、午前2時56分、再び起動させようとしたが、起動しなかった。運転員はこれに並行して、免震重要棟にある発電所対策本部の復旧班にバッテリー交換を依頼した(注7)

 マサ:回ってたんだけど、再起動ができなかったっていう話だったのかな、とにかく回ってたんだけどダメになったっていう話があって。

 奥山:実際に現場に、タービン建屋の地下でご覧になったわけですよね、12日の朝に。

 マサ:そうです、行ったんです。

 奥山:それはどんな様子ですか?

 マサ:そのときはぼくらは構内は構内専用のPHSで連絡取り合ってるんですけど、PHSの基地局も壊れちゃったんで。
 12日の朝にはまだ津波警報が出てるし、余震もまだ続いてる状況なんで、そこの連絡手段がない、と。タービン建屋に入っていっちゃうと、連絡が取れなくなっちゃうっていうことで、じゃあどうするんだ、と。じゃあ、階段ごとに人を置いて、外まで。津波警報とかが来たら、声で知らせようっていう話になってて。

 福島県では、2011年3月11日午後2時49分、気象庁から大津波警報が出され、津波の予想高さは当初、3メートルとされたが、午後3時14分に6メートル、午後3時半に10メートル以上と引き上げられた。それが翌12日午後1時50分まで維持された。「大津波」から「津波」へと警報が切り替えられたのは12日午後8時20分だった(注8)。つまり、彼が1号機タービン建屋地下に入ったときはまだ大津波警報が発令されたままの時間帯だった。

 マサ:で、東電さんが2~3人ついていって、ぼくは実際つなぐほうをやってたんですけど。

 そしたらまさに余震が来て、「危ねえ危ねえ!」って話が伝達してきて。だから12日の朝にちゃんとできてない状況で、中途半端な状況で上がっちゃったんです。

 奥山:「上がる」っていうのは、重要免震棟に戻る、ということですね?

 マサ:そうです。「今、余震が来たし、津波警報が出てるから一回戻って」っていう話で。だから4人かな、そのとき。うちの人間がふたりと、東電さんが3人かな? たしか5人だったと思うんだけど。で、つないでるぼくら、うちの人間が2人。で、1、2、3と、こういたような。で、伝達してきて、「いったん上がれ」って言われて、みんなで上がってって、ちょっと高台のところで様子を見てて。そのときにぼくは線量計が気になって、今ここどうなんだろうって思って。で、見たときに下ひと桁がすごい勢いで上がってたんですよ、デジタルが。

 奥山:見てるあいだに?

拡大福島第一原発1、2号機(手前)と免震重要棟(右奥)=東京電力ホールディングスが2020年12月22日に公表した2011年3月20日撮影の「福島第一原子力発電所事故の状況に係る写真」
 マサ:見てるあいだに。ブワーッて上がってって。7、8、9、10みたいに上がってって。「うわ、ダメだ! ここにいちゃダメだ!」。津波の様子見てる場合じゃなくて、「車に乗って帰ろう!」って言って、すぐそのまま免震棟に。

 奥山:上がってたのは1号機の建屋の…

 マサ:1号機の建屋から少し坂を上った、海が見えるようなところにすこし上って。あそこの上にちょっと上って、そこで見てたんですけど。そのときたまたま気になったんで、それ(線量計)を見て気づいたんで、すぐ。

 奥山:12日の朝、日が昇った時間帯?

 マサ:あれは、日が昇ってましたね。

 奥山:その頃は、1号機、線量が高くて、建屋の中に入れるか入れないかっていう状況のころですよね。

 マサ:だけど、そういう情報はないんですよ。その当時って、11日に地震が来て、その次の日の話ですから、たとえば放射線管理の人間がいるとか、そういう状況では全然ないんで。

 奥山:それは一応マスク着けて。

 マサ:一応マスク着けて。だからそこの場面で自分たちが、いつもであればどんなときでも、新しい仕事なりなんなりするときには、その状況、行くところの場所がどんな線量があるとか、どんな状況かっていうのは必ず放管員が最初に行って、事前サーベイというものをやって、情報を得て、じゃ、それだけの線量があるんだったらどんな作業の方法があるかっていうことをするんですけど、そこはそういうことやってる余裕が全然ないんで、とりあえずアラームだけ持って、とりあえず行って。

 放管員というのは放射線管理員を指す。サーベイは「調査」「測量」「実地踏査」を意味する英語だが、ここでは、放射線量を測定し、放射能汚染を探ることを指す。アラームというのは、警報つき線量計を指す。

 奥山:直すバッテリーをディーゼル消火ポンプにつなごうとされてたわけですよね。それは起動するためのバッテリーっていうことですよね? 一番しょっぱなのエンジンかける。

 マサ:はい、そうです。

 奥山:それをやってる途中で余震があって逃げて、そのあとはもう戻れない?

 マサ:そのあとは実は、それでニュウインの朝にその件があって、免震棟に戻ったときにサーベイを当然受けますね、中に入るときに。それでもう全身汚染だったんです。ぼくともうひとりは全身汚染で。そのときのオーダーって、震災前のバックグラウンドとかのオーダーを使ってるんで、ちょっとでもすごい汚染になっちゃうんですね、まだ。そういうバックグラウンドを上げて、「このぐらいだったら大丈夫」っていうのをまだ設定してないんで、震災前の状況でこうなっちゃうんで、実はたいしたことないんだけど、すごいことになっちゃって。だから全身汚染っていうことになって。で、免震棟に戻って、サーベイしたら全身汚染だっていうことで、着てるもの全部脱いで、コールドシャワーに行って、戻ってきたんだけどオーダー落ちなくて。で、ぼくともうひとりはそのまま免震棟の宿直室みたいなところがあって、そこに隔離状態になっちゃったんです。「ちょっと出ないでください」っていう話になっちゃって。でもう、そのまま12日は何もしないですよ。

 「オーダー」というのは放射線量の数値の桁の数を意味する。のちに事態が悪化していくにつれて、放射線量は増えていくことになる。が、12日朝の時点では、事故発生前と同じように微弱な放射線も検知できるように測定器を設定していたようだ。

 奥山:ちょっと話戻りますけど、つけようとされてたんですよね、バッテリーを。それはうまくいけばちゃんと直るような感じでした?

 マサ:いや、結局はバッテリーが生きるってことは電気が生きるんだけど、駆動するほうに全然影響があったのかないのかっていうと、そこはちょっとわかんないですね。どこまで水没してたかわからないんで。
 機械的に、水没してたらダメな部分っていっぱい出るじゃないですか。電気的にこっちを生かしてケーブルが生きてても、機械的にこっちのものがどんだけ生きてるかちょっとわからないんで。
 でもあとで聞いた話だと、ぼくがやり残したやつは東京電力の人があとから行って、つないでやったんだけどダメだったっていうのを聞いた。

 奥山:それは12日に?

 マサ:いつやったかわからないです。だいぶあとになって聞いたんで。「あれは俺があとからやったんだけど、結局ダメだった」っていうのを聞いたんです。

 奥山:すごく面白い話です。

 マサ:そうですか?

 奥山:そういう話はまったく出てないですからね。

 マサ:細かい話なんで、ホントに。

 奥山:でもすごく大事な話だと思いますよ。

 2012年6月に公表された東京電力自身の事故調の最終報告書には「発電所対策本部復旧班は余震が発生し作業が中断することがあったが、12時53分、バッテリー交換作業を完了。運転員が起動操作を行ったが、セルモータの地絡により使用できなかった」と記載されている(注9)

 マサ:やっぱり表に出るのは、燃料がどうしたとか、そっちの話なんで。

 奥山:ディーゼル消火ポンプが11日の夕方に動いていたのに夜中に止まって、それっきりになってて、それはどうしたんだろうっていうのは(東京電力から公表された時系列に)出てる話で、ちょっと気になる話だったんです。

 マサ:その前の年ぐらいまでは、消火系の水っていうのも炉心には行かないようになってたんですよね。それを改造して炉心にいけるようにしたんです。だから使えるような。ま、使えなかったんですけど。なかったんですよね、それまでその設備が。

 奥山:12日の朝に1号機のタービン建屋に入るときには、そういう汚染が出てきて広がってるっていう情報はなかったんですか?

 マサ:そのときは情報がないだけで。ぼくらは東電から指示された、持ってったAPD(警報つき個人線量計)、アラームの設定が、たしかマックス5とかで。

 久田:5ミリ。

 マサ:そこのところはホントに、5日間の中で、11日から15日の中で、最初に自分たちが現場に行くところの事前のサーベイをして、線量がどのぐらいあるからどうのこうのっていう計画を立てた仕事は1個もないんで。その時点では。行き当たりばったりでやってるような状況だったんで。

 奥山:12日の朝に、そのタービン建屋に入るのは、怖いとかそういう感じはどうなんですか? 津波のほうが怖いっていう感じでした?

 マサ:怖いっていうより、ぼく、一番最初に思ったのは、タービンの地下に行かなきゃいけないんで、水浸しだろうなっていう(笑)。中まで行けるの?みたいな。そっちが先っていうか。あんまりそのあと余震が来てとかなかったんですけど。でもさすがに現場に入りだしたときは、真っ暗だし、「これ、地下行って嫌だな」っていうのはね。何が理由とかじゃないですよね。そんなの嫌じゃないですか。建屋の中の真っ暗なところの階段下がってって、下は水浸しで。そんなの行けないですよね、気持ち悪くて。

 3月12日朝の時点で、1号機の原子炉は、非常用復水器による冷却が止まって炉内の水位が下がり、崩壊熱を発する核燃料が空気中に露出しつつある、と見られていた。しかし実際には前日の津波来襲の後、非常用復水器は機能しておらず、夜には炉心溶融が始まったとみられる。午後9時51分には原子炉建屋の放射線量が上昇していることが判明。午後11時にはタービン建屋内でも放射線量が上昇しており、1階北側の二重扉の前で毎時1.2ミリシーベルト(1200マイクロシーベルト)を測定した。12日午前2時前には圧力容器を損傷し、溶融燃料が格納容器の下部に落下したとみられる。正門で測定した放射線量の値は午前4時時点で平常値の毎時0.06マイクロシーベルトだったが、午前4時40分にその10倍余となり、上昇を始めた。一方、2号機では、RCIC(原子炉隔離時冷却系)のポンプが動き続けていることが12日未明に確認され、原子炉内の水位も保たれていた。

 奥山:12日の朝に入ったときには、当時は1号機、2号機はどうなってると思ってました?

 マサ:プラント自体が今どういう状況でっていうのは、何も考えてなかったですよね、いま思うと。

 奥山:特に東電さんのほうから「こうだよ」っていうのを言われたりとかは。

 マサ:情報とかはまったくないです。今、プラントの状況がこういう状況にあるとか、そういう話はまったくないです。やっぱり縦割りで、東電さんも役割が分かれてるんで、もしかしたらその情報を知らなかったのかもしれないし、東電さんの担当者自身は。

 奥山:現場の線量が上がってるっていうことは情報としてはあったわけですよね。

 マサ:そうです。だから11日の晩から全面マスクだよっていう話になってたんで。外に出るには全面マスクって話になってたんで、その時点では線量上がってるんだなっていうのはみんな常識的にはわかってるんで。

 奥山:1号のタービン建屋の地下に入ったときに、たとえばDG(ディーゼル発電機)がある部屋とか、そういうのを見たりはしない?

 マサ:しないです。その目的のところしか行ってないです。

 奥山:部屋によって水の量って違うんですか?

 マサ:そうですね。でもう、11日に津波があってから、12日の朝にはもう相当引いてるんで、もう実際。いったんはどの号機も、地下1階ぐらいは全部水浸しだよっていうところだったんですけど、12日の朝になった時点で、相当引いてるところがたくさんあって。

12日朝、菅直人首相が福島第一原発来訪

拡大福島第一原発を訪れ、東京電力側から説明を受ける菅直人首相(左から2人目)ら=2011年3月12日午前7時24分(内閣広報室提供)
 3月12日朝、菅直人首相、寺田学首相補佐官らがヘリコプターで東京・永田町の首相官邸から福島第一原発に飛来した。政府の原子力災害現地対策本部長として地元・大熊町にあるオフサイトセンターに入っていた池田元久・経済産業副大臣や東京電力の武藤栄副社長らの出迎えを受けた。免震重要棟に入り、吉田所長と会談した。東電事故調の報告書に添付された時系列によれば、午前7時11分に発電所に到着し、8時4分に出発した、とされている。

 マサ:12日に菅直人が来たじゃないですか、原発に。あれも見掛けたんですけど。ぼくらがさっき言った汚染って言われるサーベイ受けてるときに、そこ通ったんです。そのときはまだ設備がちゃんとしてないんで、廊下でやってるんですよね、サーベイも。「現場から帰ってきた人、こっち来て!」と言われて。で、こうやってるうちに、菅直人が、団体さんがドーッと入ってきて。

 奥山:それは消火ポンプのバッテリーをつなごうとして(余震で高台に戻ってきたときに)?

 マサ:そうですそうです、それで、帰ってきて。

 奥山:帰ってきて、というときですね。6時とか7時とか。

 マサ:そうです。帰ってきてサーベイ受けてるときに菅直人が。

 奥山:免震棟の中に入ったところで、廊下の。

 マサ:そうです。えらい怒ってましたよ。その時点ですっごい怒ってました。自分も外から入ってきたからサーベイ受けなきゃいけないじゃないですか。そこらへんで怒ってたんじゃないですかね。だって向こうのほうでも、ぼくらが通る、通りの向こうのほうで聞こえてましたもん。緊対室じゃなくて。緊対室は2階なんですけど、1階の段階で、向こうのほうで、「俺はこんなことしにきたんじゃないんだよ!」って(笑)。(ぼくらは)「ホント怒ってるよ、すごい!」みたいな。

 奥山:免震棟入るときにみんな並んでるんですか。

 マサ:はい。

 奥山:その一番最後列に並ばされたらしいんですね(笑)。総理大臣が。

 マサ:ぼくの前をスーッと通っていって、で、向こうのほうに行ったときに「こんなことやりに来たんじゃないんだよ!俺は」みたいな声がして、(ぼくらは)「怒ってるよ、菅直人」「何しに来たんだよ」みたいな。

 奥山:それ菅さんの声で?

 マサ:たぶんそうでしょうね。

 奥山:やっぱり。怒鳴ってばっかりとは言われてる。

 マサ:なんかのニュースかなんかで、もともと「イラ菅」っていうのは聞いてたんで、「おお、やっぱりそうなんだ」と思って(笑)。

 東電事故調の報告書に添付された別紙2には次のように記載されている。

 免震重要棟入口で身体サーベイを担当していた保安班が,免震重要棟に入ってきた内閣総理大臣の身体サーベイを開始したところ,「何をしているのか」と質問された。身体サーベイしている旨を説明しても繰り返し同じ質問をされ,これ以上身体サーベイを続けられる雰囲気ではなかったため,身体サーベイを中止。全員を免震重要棟2階の会議室まで誘導した(注10)

 このときの様子について、経済産業副大臣だった池田氏はのちに政府事故調の聴取に次のように振り返った。

 作業員の人が大勢いた。中には上半身裸というか、除染などの人だと思うのですが、大変だなと思ったのです。その前で菅は何と言ったかというと、何でおれがここに来たと思っているのだと言ったのです。これには私はあきれました。武藤や寺田に言うならまだしも、一般の人の前で、言ったので、イラ菅にしても今日はひど過ぎるなと思って。秘書官なんかもみんなびっくりしたと思うのだ(注11)

 首相補佐官として菅首相に官邸から同行した寺田学衆院議員はこのときの様子について、のちに自分のブログに次のように書いている。

 総理が総理として扱われていない。重要免震棟入り口付近には人で溢れていた。肩と肩がぶつかる程の混雑。二重ドアを閉める為、背後から押されるように人混みの中へ。誰が自分たちを誘導しているのか全くわからず、総理一行は混雑する人に紛れてバラバラに。人混みの中の小さな流れを見つけ、それに任せて前に進む。奥には二列の行列。左の列に総理が並んでいた。右をみると、上半身裸の男性が、汗だくで床に寝そべっていた。息は荒い。列の先頭では、係員が機器を使って入場者の放射能を計っている。「おい、ここらへん高いぞ!」と私の近くで係員が叫ぶ。いよいよ次が私、というところで、左にいた総理が「なんでこんなことしなくちゃいけないんだ」と列を離脱、誰かに誘導されて階段に向かう。急いで私も後を追う。階段に到達するも、そこも人だらけ。階段の壁には、びっしり人が立っていた。休むところがなく、壁にもたれて休んでいる様子。一様に目が疲れている。目の前に総理大臣がいることを気付くものは殆どいない。気付いても目で追う程度。急いで階段を駆け上がるが人混みで総理を見失う。二階にあがり、誰かの導きで会議室に到着したら総理と津村記者の二人だけがいた(注12)

次回につづく

 ▽注1https://tablo.jp/
 ▽注2https://webronza.asahi.com/judiciary/index.html
 ▽注3: 東京電力、2011年3月15日、「福島第一原子力発電所の職員の移動について」。https://www.tepco.co.jp/cc/press/11031504-j.html
 ▽注4: 東京電力、「福島原子力事故調査報告書」(東電事故調報告書)8頁、2012年6月20日。https://www.tepco.co.jp/cc/press/betu12_j/images/120620j0303.pdf#page=29
 ▽注5: 奥山俊宏、「プロメテウスの罠 内部告発者:13 津波の音が響いた」、朝日新聞朝刊3頁、2014年3月16日。
 ▽注6: 東電事故調報告書125頁。
 ▽注7: 東電事故調報告書129頁。
 ▽注8https://www.jma.go.jp/jma/kishou/hyouka/kondankai/kondankai16/shiryou6.pdf#page=9
 ▽注9: 東電事故調報告書129頁。
 ▽注10: 東電事故調報告書別紙2。https://www.tepco.co.jp/cc/press/betu12_j/images/120620j0305.pdf#page=59
 ▽注11: 政府事故調(東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会)、聴取結果書、被聴取者:池田元久元経済産業副大臣、聴取日2012年2月9日。https://www8.cao.go.jp/genshiryoku_bousai/fu_koukai/pdf_2/543_1.pdf#page=5
 ▽注12: 寺田学、2016年3月11日、「311の記憶」。https://www.manabu.jp/blog-entry/2016/03/11/433/

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。


筆者

奥山 俊宏

奥山 俊宏(おくやま・としひろ) 

 朝日新聞編集委員。
 1966年、岡山県生まれ。1989年、東京大学工学部卒、朝日新聞入社。水戸支局、福島支局、東京社会部、大阪社会部、特別報道部などで記者。『法と経済のジャーナル Asahi Judiciary』の編集も担当。
 著書『秘密解除 ロッキード事件  田中角栄はなぜアメリカに嫌われたのか』(岩波書店、2016年7月)で第21回司馬遼太郎賞(2017年度)を受賞。同書に加え、福島第一原発事故やパナマ文書の報道も含め、日本記者クラブ賞(2018年度)を受賞。 「後世に引き継ぐべき著名・重要な訴訟記録が多数廃棄されていた実態とその是正の必要性を明らかにした一連の報道」でPEPジャーナリズム大賞2021特別賞を受賞。 近刊の共著書に『バブル経済事件の深層』(岩波新書、2019年4月)。
 そのほかの著書として『パラダイス文書 連鎖する内部告発、パナマ文書を経て「調査報道」がいま暴く』(朝日新聞出版、2017年11月)、『ルポ 東京電力 原発危機1カ月』(朝日新書、2011年6月)、『内部告発の力 公益通報者保護法は何を守るのか』(現代人文社、2004年4月)がある。共著に 『現代アメリカ政治とメディア』(東洋経済新報社、2019年4月)、 『検証 東電テレビ会議』(朝日新聞出版、2012年12月)、『ルポ 内部告発 なぜ組織は間違うのか』(同、2008年9月)、『偽装請負』(朝日新書、2007年5月)など。
 ツイッターはhttps://twitter.com/okuyamatoshi
 ご連絡は okuyama-t@protonmail.comに。メールの内容を暗号化する場合はPGPで。パブリックキーのIDは7D2BAD43550EAD96

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

奥山 俊宏の記事

もっと見る