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 この夏の、すてきな出会いをお伝えします。

拡大田口ランディさんと水浦裕士さん

 空があかね色に染まっていました。8月8日午後7時、長崎港を望む「長崎水辺の森公園」。昼間の強い日差しで顔を真っ赤にした水浦裕士さん(35)がビール箱で作ったステージをじっと見つめていました。水浦さんは、原爆で命を奪われた人たちを音楽で慰霊する「水辺の森の音楽祭」の実行委員長を務めています。

 彼の視線の先には、神奈川県から駆けつけた作家の田口ランディさん(50)がいました。午後に開幕した音楽祭は、ロックあり、フォークあり、ポップスあり。そんな中で、田口さんは静かなギターの音をバックに語り始めたのです。

 チェルノブイリやアウシュビッツを訪問したときのことを語り、そして、かつての広島の美しい町の様子をうれしそうに語る被爆者のことを話しました。「広島も長崎も原爆が落ちなければ当たり前の美しい地方都市だったと思う。ヒロシマ、ナガサキとして伝え続けることがいいのか、もとの広島、長崎がいいのか、今でもわかりません」と田口さん。そして、アカペラで「ふるさと」を歌いました。

 暮れゆく空に、田口さんの歌声だけが響き渡りました。

 その間約20分。芝生の上に陣取った観客は静まり返りました。ふと見ると、被爆2世の水浦さんの目には光るものがありました。「救われたような気持ちになりました。言いたいことを代弁してもらったような……」と水浦さんは言いました。

 音楽祭は3回目です。仕事を休んで駆けつける約30人のスタッフの手作りです。開催費用は約20万円。地元の企業や個人に協賛してもらっています。そのため、テントや機材は知り合いから借りて自力で設置し、翌日も続くステージのために野宿して機材の番もします。出演者もみな自費でやって来ます。

 音楽祭のきっかけは、田口さんのエッセーでした。「真夏の夜の夢」に収められた一節に、2000年に広島を訪れた時、形骸化した平和式典にうんざりして夕方平和公園に行くと、灯籠流しが行われる中でどこからともなくチェロの音が聞こえ、見ると世界的なチェリストのヨーヨー・マが即興で演奏していたという体験を田口さんはこうつづっています。「生きるものも、死せるものも、蘇り、たったひとつの音色によって結ばれていた」

 それをスタッフのひとりが読んだことで、「反核」も「反戦」も掲げずに、観客数も関係なく、ただただ音楽で慰霊するという音楽祭の形になったそうです。

 一方の田口さんは広島、長崎を何度も訪れ、2005年に小説「被爆のマリア」を発表します。ですが、それは当事者でない自分はいかに原爆問題にかかわれないかを表明したような作品でした。その後も取材を続けましたが、田口さんはもう原爆のことは書けないかもしれないと思い始めていたそうです。しかし、昨年、私がこの音楽祭のことを取材し、記事にする過程で田口さんに連絡をとり、自分の文章がきっかけで音楽祭が始まったことを知ります。

 「書いておけば何かになるんだ。もう少しやることがあるかもしれない」

 田口さんはそう思えたそうです。

 田口さんは今年、自ら「広報宣伝担当」を名乗り出ました。ブログやツイッターに音楽祭のことを書き、前日に長崎入りして会場の設営も手伝ったのです。

 音楽祭2日目の9日は雨でした。雨脚が強くなった正午、水浦さんは中止を決めます。ただ、音楽祭は市内のワインバーに場所を移し、ライブという形で続けました。田口さんのブログを見て香川や千葉から来たという出演者がギターをかき鳴らし、アコーディオンを弾きました。出演は2日間で全国から33組70人以上にのぼりました。

 田口さんはこの日は知人とユニットを組んでロックを歌いました。自分で作詞した歌も披露しました。「BE FREE」と題された歌は「生きて、生きて、生きて、生きてみせる/バカでいいさ、くだらなくてもいいじゃん/こんな親でもいい。嫌われ者でもいい/出過ぎた釘は打たれやしねえ/宇宙の果てまでまかり通れ……」。力強いものでした。

 田口さんは2日間を振り返り、「一番刺激的だったのは、とても多くの若いミュージシャンが『祈りのため』という、ただそれだけの理由で長崎に終結したこと。私も参加して、自分が歌うことで『祈り』を感じ、霊の前に立っていると実感した」と話してくれました。そして、「私は来年も出演する。歌うことが慰霊の音楽際だから、歌います」と宣言しました。

 一方、水浦さんはスタッフと昼から雨の中を公園会場の片づけを続けました。借りた機材などを返して歩き、みなに合流できたのは一番最後、日付が変わったころでした。すでに打ち上げに入っていたバーで、ちょっと酔った田口さんが待っていてくれました。「働く委員長は偉い!」と声をかけてもらいました。スタッフも充実した顔で楽しそうに語り合っていました。「それが一番うれしかった」と水浦さんは言います。かつて、スタッフが疲れ果てて打ち上げを楽しめないイベントを経験したことがあるからだそうです。「みんなが無理せず、楽しんで続けることが、一番の慰霊になる」。水浦さんは、そう確信しました。

 実は、田口さんのブログがきっかけで、5月には日系大物ミュージシャンの関係者から交通費25万円を出せば出演するとの打診もありました。来てもらえれば、盛り上がるのは間違いありません。観客も増えるでしょう。相当悩みましたが、水浦さんは「特別扱いはしない」と結論を出したのでした。「音楽祭の原点を確かめることにもなった。観客を増やすことが目的ではないのだから。いい経験だった」と振り返ります。

 輪は確実に広がっています。公園会場であった女性2人は福岡からやってきたそうです。田口さんのファンで、ブログを見て来たと言っていました。「公園に寝転がりながら、昼寝をしながら、音楽を聴けて、そして、慰霊もできる。すてきな空間だと思った。来年は、私も出演する」と話していました。

 水浦さんは言います。「原爆で亡くなった人たちも、私たちが楽しんで、元気に過ごせば喜んでくれると思う」

 そして、「(規模が大きくなってきて)すべて手作りというのは限界かもしれない。機材を有料で借りるなどして、来年は実行委員長の自分は運営に専念した方がいいのではないか」と思っているそうです。そうすると、もう少し予算が必要になります。「経営する保険代理店を大きくして、自分で協賛できるといいな……」。打ち上げの最中に、そんなことを考えていた水浦さんは、ワイン片手に1時間ほどで記憶を失いました。

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筆者

大久保真紀

大久保真紀(おおくぼ・まき) 朝日新聞編集委員(社会担当)

1963年生まれ。盛岡、静岡支局、東京本社社会部などを経て現職。著書に『買われる子どもたち』、『こどもの権利を買わないで――プンとミーチャのものがたり』、『明日がある――虐待を受けた子どもたち』、『ああ わが祖国よ――国を訴えた中国残留日本人孤児たち』、『中国残留日本人』など。

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