宇野常寛
2010年10月09日
2008年の秋葉原連続殺人事件は大きな衝撃を持って社会に受け止められた。私個人もそのひとりで、この事件をきっかけに多くのことを考えた。しかし、前提としてこの事件それ自体を過剰に意味づけすることには慎重でなければならない。アイデンティティ不安に晒された個人がやりばのない承認欲求から凶悪犯罪を起こすというケースそれ自体は珍しくない。有名なところでは岡山県の農村で青年が30人を殺した1938年の「津山事件」が、近い例としては1999年の「池袋通り魔殺人事件」や、その模倣犯として知られる同年の「下関通り魔殺人事件」が挙げられるだろう。
若者のアイデンティティ不安それ自体はいつの世にも存在するものだ。しかしここで重要なのはそれゆれに、この種の事件を考えることで私たちがほとんど所与の条件として受け止めている社会の構造や、コミュニケーション観を把握しやすくなるということだろう。言い換えれば、この種の犯罪はむしろ「ありふれた」「凡庸な」ものであるがゆえに、事件の背景から時代を読む手がかりを得ることができる。したがって「~が加藤容疑者の暴走を生んだ」という「犯人探し」にはほとんど意味がない。なぜならばそれは犯人の凡庸さが生んだ悪と、不幸な運命が重なった結果起こった忌まわしき犯罪なのだから。だが私たちはその凡庸さの性質について考えることで、時代の制約を知ることが出来る、とはひとまず言えるだろう。あくまで思考上のシミュレーションとして、以下の論を進めたい。
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