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欧州的先入観を打破する「鬼気」はあるか

倉沢鉄也

倉沢鉄也 日鉄総研研究主幹

日本が韓国、オーストラリア、カタール、米国に競合勝利し2022年のワールドカップサッカーの開催国となれるか。それは12月2日に決まってしまうことなので予想することはあまり有意義でない。日本サッカー協会(JFA)の長期ビジョンに基づく理論武装も、招致委員会の活動の積み上げも、国際サッカー連盟(FIFA)によるこれまでの肯定的・否定的評価も、本稿で深くは論じない。先般の理事の収賄活動に象徴されるように、最終的には政治的な地下活動によって決まってくる性質のものであろう。

 2002年W杯を経験した、あまりサッカーに入れ込んでいない一日本国民としては、このイベントが、投資対経済効果や社会・文化的影響としてプラスマイナスの差し引きで多少はよい(totoの低迷のきっかけになったなど、マイナスも少なからずあった)ことであろうとは思う。

 日本代表の強化やその候補選手の裾野の拡大には絶大な効果があろうが、そのさらに裾野を形成するサッカー少年たちが、日常のテレビで見る欧州リーグやW杯ではなく、実は近寄りがたかった2002年の自国W杯からどの程度のよい影響を受け取ったのか、個人的感覚ではやや疑問ではあるが、おそらくないよりもあったほうが確実にプラスの影響をもたらすであろう。以上の既定路線の論点も深くは論じない。

 筆者が気になる論点は「日本という国は、世界のサッカー市民の目線から見て、4年に1度、一生に15回くらいしか見られないW杯開催国として、たった5回ぶりで登場するにふさわしい国なのか」という点である。そうした漠然とした先入観は、最終決着での投票者たちの判断基準としてかなり重要なところを占めるのではないかと思われる。

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