大久保真紀
2010年12月10日
最近、採用に関わっていたり、就職説明会で大学生に会ったりしている複数の同僚からこんな話を聞きました。
「大学生の就職説明会で、隣の○○というアパレル会社は100人とか来てたけど、うちは数人だった」「隣の会社にはずっと行列ができているのに、うちはパラパラでしたよ」
若者に新聞が読まれなくなって久しい。最近はネットでニュースを拾うことができるため、ますます新聞の必要性を感じていない人たちが増えています。
私自身、ここ数年、いくつかの大学で講義をすることがありますが、「新聞を読んでいる人は?」と聞くと、150人から200人ほどの教室の中で、手が挙がるのはぱらぱら。数人から多い大学でも10人ちょっとといったところです。
しかも、メディアに対する視線は非常に厳しいと言わざるを得ません。
講義では、私が鹿児島総局デスクだったときにかかわった志布志事件などを通して、調査報道や権力監視といった新聞の使命や役割などについて話しますが、そんな役割よりも何よりも、学生たちはメディアに対してプライバシー侵害の権化と見ていることをひしひしと感じます。
私が大学生のころは、そういうと笑われてしまうかもしれませんが、当時は、問題は多々あるにしてもジャーナリズムの使命や役割という側面にいたく感動し、民主主義に報道は欠かせないということを強く感じました。その思いが、この仕事を選んだひとつの理由でもあります。それに当時は私だけが特別にそういう思いをもっていたわけではないと思います。仲間の大学生たちも程度の差はあれ、同じような感覚だったと思います。
それが、いまは、180度雰囲気が違います。実際に大学でジャーナリズムについて教鞭をとっている先生たちに聞いても、私と同じ感想をもたれています。メディアスクラムなどの影響はあるとは思うのですが、そうした問題ばかりがクローズアップされ、本来の機能というものがなかなかわかってもらえなくなっているように感じます。もちろん報道に対する信頼性の低下というものが背景にあることは否定しませんが……。
「権力は腐敗する。そして、権力は情報を隠そうとする。簡単に何でも情報を教えてくれるわけではない」。こうしたことを講義で話すと、びっくりされたような顔をされる学生さんもいます。
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