大久保真紀
2010年12月17日
尾下さんは戦後一貫して軍人恩給の受給を拒否してきた元日本兵です。この夏に朝日新聞に連載した「65年目の遺言」シリーズをこの冬にもやることになり、10月中旬に尾下さんに取材を申し込んでいました。電話で「2日にわたって人生をまるごと聞かせていただきたい」とお願いすると、「最近体の調子があまりよくない」といいながらも、「東京から来るんなら、うちに泊まればいい」とうれしそうにおっしゃってくださいました。私自身、電話で話した感触から、いろいろなことをうかがえそうだと感じ、尾下さんとの取材を非常に楽しみにしていました。
それが、突然逝かれてしまいました。
東京在住の次男信彦さん(56)から連絡をいただき、「あと1週間早く会いに行っていれば」と悔やまれました。私自身の心の整理をつけるためにもと、自宅から片道7時間かけて通夜・葬儀に向かいました。
通夜の席で、信彦さんから、尾下さんが準備していたとみられる資料を手渡されました。自宅の居間にあったそうです。自分を取り上げた雑誌や新聞の記事、対談記録などがきれいにコピーされていました。
私はその資料を受け取り、通夜に臨みました。祭壇の中央には、初めてお会いする遺影の中の尾下さんがいらっしゃいました。ほおを赤く染めた、ふくよかな笑顔でした。私には、僧侶の読経に合わせて、遺影の中の尾下さんが口を動かしているように見えました。「尾下さん、あなたは私に何を話してくれようとしていたのですか」。何度も心の中で尋ねました。
信彦さんや同居していた尾下さんの妹さんによると、尾下さんは亡くなるその日、体がむくんでいたそうです。周囲の人に病院に行くように勧められたけれど、最後まで「今回の取材が終わるまでは行かない。土・日に取材を受けて、月曜に病院に行く」と言い張ったそうです。夕方まで信彦さんとも電話でそうしたやりとりをしていたそうですが、午後6時前に病院に行った後は全く話さなくなり、その夜帰らぬ人になりました。
尾下さんはこの夏に2カ月ほど入院していたこともあり、また入院になったら、もう取材を受けられなくなると思ったのではないか、と信彦さんは言います。「父は、今回の取材を本当に楽しみにしていた。最近は取材もあまりなかったみたいで、話を聞いてもらいたかったのではないか。それに今回が最後だと思っていたのではないか」
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