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国民統合の象徴も進化する存在

倉沢鉄也 日鉄総研研究主幹

64年前、日本国憲法第1条によって「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。(原文ママ)」と位置づけられて以来、私たちは皇室の話題を実質的に自由に語ってよくなった。正田美智子さん(当時)のご成婚を機に、報道は日本の幸せな家庭の象徴を皇室に見出そうとし、その結果、皇室をめぐる人間関係の幸・不幸が必要以上にクローズアップされてきた。

 そのこと自体は英国をはじめ他の多くの国王一家をめぐる状況と大きくは変わらず、むしろ過去のグレース王妃(モナコ)やダイアナ妃(イギリス)の悲劇を思い起こせば、日本の皇室報道は十分に穏便だったと言っていいのだろう。

 筆者は憲法学者でも天皇論の研究者でもないので、さまざまに論じられている制度論や歴史論や思想論については、正確な議論のできる方に譲りたい。本稿では、冒頭に記した「日本国民統合の象徴」というキーワードを頼りに、ほとんど(個人的には、すべてではないが)報道を通じてしか知らない一国民として「皇室って、自分にとってどうよ?」というモヤモヤを探ってみたい。

 30~40年前に、現・皇后陛下が莫大なストレスに耐えて体現してきた、幸せな母と子の姿は、生活の多様化して長らくたった現在の日本社会において、もはや全国民的な理想形ではなく、ライフスタイルの1パターンでしかないだろう。過去の妃殿下と大きく異なるワークキャリアを携えて皇室入りをした雅子妃殿下に報道が期待していたのは、おそらく旧来の皇室的な家庭の表現と、特殊訓練を積んだ「外交官」としての実績の両立であったと思われる。それは雅子妃殿下が望んでいたところであるように思われ、長引く体調不良から、回復にご努力されているご本人にとっても、おそらく報道側にとっても、本意でない切り口での報道が続いている。

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