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世界都市の多様で豊かな機能を放棄するな:都条例改正に反対する一都民から

赤木智弘(フリーライター)

◇海外の児童ポルノ規制と日本のマンガ表現◇

 実際、海外では作品を描く場合、大半の人はマンガ表現を選択しない。

 なぜなら、外国にはマンガ表現で人間の隘路を描くような文化が成熟しておらず、そもそもマンガでそうした表現ができる可能性自体が見えていないからである。

 一方、日本では手塚治虫や、石ノ森章太郎を始めとした多くのマンガ家たちが、マンガ表現を用いて、人間を描き続けてきた。今年に連続テレビドラマ化された「ゲゲゲの女房」で話題になった水木しげるだって、妖怪マンガを描きながら、そこに描き出されたストーリーは、人間社会のドロドロとした部分を探り当てていたのである。

 そうした潤沢なマンガ表現が培われてきた日本において、海外の児童ポルノ規制や、子どもの権利の文脈を安易に受け入れ「だから日本も早急に「アニメやマンガの児童ポルノ(!?)」を規制しなければならない。規制しなければ世界の恥だ」という主張がされているのを見聞きすると、文化に対する理解のなさを実感し、寂しく思う。

 そうして何でも外国に合わせるのではなく、日本こそが率先して、文学や映画、音楽などと並び、人間社会や世界を描き、子どもはもちろん大人の観賞にも堪えうるマンガ表現の奥深さを訴えて行くべきなのである。

 そうして独自の文化を世界に波及させていくような、独自性の積み重ねこそが、日本が世界から一目置かれる国になるための一里塚なのであり、安易に世界の論理に合わせて、日本独自の文化を画一化させるべきではない。

◇マイノリティ批判にもとづく「一元化」◇

 12月に発売された『思想地図β Vol.1』に掲載されている猪瀬直樹、村上隆、東浩紀の座談会の中で、猪瀬は「(小学生が性表現のあるマンガなどを)自覚的に読みたかったら、背伸びをしたり、イスの上にのって手を伸ばして取ったものをレジに持って行って、大人の店員に止められる挫折を味わうような性質のものだと。僕らだって子ども心にレジをなんとか突破できないか、と思案したものです。それが通過儀礼のプロセスとして必要だと思います」と論じている。

 一見、子どもが性表現に触れることに理解のある発言ののように思えるが、猪瀬は恐らく、彼の個人的体験に依拠したイメージのみを「正しい通過儀礼」であると思い込んでいて、その他の「まったくそうした表現に触れない経験」や、逆に「そうした表現に囲まれて過ごした経験」を否定してしまっている。

 猪瀬を始めとする都側の言動を考え合わせながら、この条例そのものを見直してみると、この「青少年健全育成」という概念が目指しているのは、決して単なる規制の強化ではなく、大きな目的として「子どもに対する教育を一元化すること」であることに気づかされる。

 さらにいえば、その一元化は決して子どもに対する教育に留まらない。

 条例改正の文脈で、石原慎太郎が「子どもだけじゃなくて、テレビなんかにも同性愛者が平気で出るでしょ。日本は野放図になり過ぎている。使命感を持ってやります」(12月3日)や「どこかやっぱり足りない感じがする。遺伝とかのせいでしょう。マイノリティーで気の毒ですよ」(7日)などと、相変わらずのマイノリティ批判を行ったことは、決して無関係ではない。

◇地方都市や郊外から失われた複雑な豊かさ◇

 このマイノリティ批判に対して、アルファブロガーとして知られる小飼弾は「石原都知事はどこかやっぱり足りない」と批判を加えている。

 小飼は、人口わずか70万人程度のサンフランシスコが、圧倒的な知名度と、地価の高さを保ち、なぜそこに優秀な人材が集まるかという問いを設定し、その答えとして「ヨソモノ・ワカモノ・バカモノたちを受け入れて来たからだ」との見方を示す。彼は、ゲイパレードがひらかれるようなマイノリティに居場所がある地域だからこそ、若いアーティストや技術者などという「ゲテモノたち」が集い、シリコンバレーのような場所が産まれるのだと言う(12月8日、404 Blog Not Found:石原都知事にどこかやっぱり足りないものhttp://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51558989.html)。

 他に居場所の無いマイノリティたちを受け入れるからこそ、都市には多様な人間が集まり、個性や才能がぶつかり合う中で、新しい才能や文化が発生し、都市ならではの活気が産み出される。それこそが「都市」が「都市」たる所以であり、都市の魅力である。

 そして、現状の石原都政のように、マジョリティによる価値観の一元化を目指すのは、「都市の田舎化」であり、石原慎太郎は東京という「都市」の長として「どこか足りない」。小飼は、そう論じる。

 数年前まで、北関東の地方都市に住んでいた私の実感として、マイノリティの少ない地方都市では、みんなが当たり前のように車を所有しているため、駐車スペースの少ない駅前の繁華街から人の姿が消え、駐車場の広い郊外の大型ショッピングモールに人が集まる。幹線道路沿いには、ファミレスやコンビニ、ファストフード店、新古書店やパチンコ、そして紳士服チェーンなどの大きなチェーン店舗が、どこの市町村にも同じように立ち並ぶ。

 こうした郊外化の影響は、決して車からの風景が、どこの都市でも同じになるというだけではない。

 私たちは常日頃から、自らの周囲にあるお店で物を購入したり遊んだりすることで、日々の欲求を満たしていく。

 しかし、郊外化された都市では、均一的なチェーン店と関わりながら、均一的な品揃えや均一的なサービスの中で、日々積み重ねられるさまざまな経験が、自然と画一化されていく。

 庶民的な商店街や、高級そうなショップ街。寺社が密集していたり、若者の街や老人の街だったり。そうした降りる駅を1つ変えるだけで、それぞれの街に息づく個性が産み出す都市の複雑な豊かさは、郊外の街々からは完全に失われてしまっている。

◇携帯電話のフィルタリングも◇

 そうした複雑な豊かさの一部を敵視する画一化への欲求が、まさに今回の条例改正によく現れている。

 今回の条例改正では、マンガ表現の問題ばかりが注目されがちだが、携帯電話のフィルタリングに対する改正も、画一化への欲求に基づいている。

 今回の改正では、青少年の携帯電話などによるインターネット利用について、保護者によるフィルタリング解除の手続きが厳格化される。

 都側は「フィルタリング対象にならないサイトで、青少年が犯罪に巻き込まれることがある」として、フィルタリングの必要性を強調するが、その一方で、フィルタリング利用の推進は、青少年がインターネットから得られるかもしれないさまざまな経験を、あらかじめ刈り取ってしまうことになる。

 私自身、パソコン通信やインターネットを利用しはじめたのは1994年で、10代の後半には、オフ会などを通して、多くの人と知り合うことができた。

 そうした経験をするのが絶対に正しいなどと主張するつもりはないし、今のインターネットと、かつての牧歌的なコミュニティーを同列に並べるわけにはいかないだろう。それでも、ネット上で人と人が出会うという成長を阻害する可能性の高いフィルタリングを、無意識に利用して当然という規制のありように、私は賛同できない。

 これもまた、ネットを通した経験の画一化を推し進めるための規制と言えよう。

◇世界都市の多様で豊かな機能を放棄するな◇

 マンガを開いて、性描写のシーンを開いてしまったり、ネットを通して悪意を持った人間と出会ってしまうこと。そうした中で子どもたちが不幸を背負ってしまう可能性は確かに侮れない。

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