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NHK「無縁社会」を「比較的無縁」の立場で考える

赤木智弘(フリーライター)

 昨年、NHKスペシャルが報じた「無縁社会」。今年、朝日新聞が報じた「孤族の国」。人間関係が希薄化する日本社会が引き起こす、さまざまな社会問題が論議を呼んでいる。しかし、「無縁」や「孤族」からの逆戻りは難しい。団塊ジュニア世代の赤木智弘さんは、濃密な「縁」に縛り付けられた従来型の社会よりも、「無縁」でも生きられる豊かな社会に必要な行政サービスの提供を、と提言する。

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 ■赤木智弘(あかぎ・ともひろ) フリーライター。1975年8月生まれ。栃木県出身。数々のアルバイト勤務を経て、「論座」2007年1月号で「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」を発表し、反響を呼んだ。非正規労働者や就職氷河期世代の実体験にもとづく社会への提言を続けている。著書に『若者を見殺しにする国――私を戦争に向かわせるものは何か』『「当たり前」をひっぱたく 過ちを見過ごさないために』がある。

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◇実感はあったが同調できなかった◇

 インターネットなどを中心に話題になった、2010年1月31日に放送された、NHKスペシャル「無縁社会 ~“無縁死” 3万2千人の衝撃~」。私もまた、「衝撃的な内容だった」という多くのTwitterユーザーのつぶやきから、この番組の存在を知った。

 その数日後に、私は番組の再放送を、Twitterの「#NHK」というハッシュタグをチェックしながら視聴した。私にとっては、特に珍しい視聴スタイルではなく、Twitterや2ちゃんねるなどで、他の人の反応を見たり、時には自分で書き込みなどをしながらテレビを見ることは、日常的に行なっているスタイルである。

 身寄りもなく死んで身元不明とされたり、先祖代々の墓に入れなかったりする人たちの話に対して、Twitter上の人たちは、そうした現実を「寂しい」ことであったり「惨め」なことであると受け取っていたようだ。

 しかし私は、そうしたつぶやきには、いまいち同調できなかった。確かに貧しいフリーライターとして「将来は我が身」という実感はあり、身につまされる部分はあるとしても、人が独りで死ぬことは決して珍しくないし、必ずしも病院のベッドで家族に看取られて死ぬわけではないと、ずいぶん前から自覚していた。

 高齢者の孤独死を防ぐ試みの1つに、ポットに通信機能をつけて、ポットの使用頻度や生活リズムをデータとしてセンターに送り、安否確認をおこなうというものがある。私がこの試みを知ったのは2001年だが、少なくともこの頃から、単身の高齢者がたくさんいて社会問題になっていることを知っていた。

宅配便でお寺に届いたお年寄り4人の遺骨。昨年、富山県高岡市で。

 また、お墓についても、自分の周りの人、といっても自分の周囲には、どちらかと言えば同年代よりは年上の人が多いのだけれど、彼らはわりと「海に散骨して欲しい」とか「鳥葬にして欲しい」などということを考えている人が多く、先祖代々や家族の墓に、まったくといっていいほどこだわりを持っていない。なので「家族の墓に入れない!寂しい!!」という感覚が、さっぱり理解できないのである。ちなみに私の希望は無縁墓地に、さまざまな人たちと一緒に入れてもらうことである。家族の墓に入るよりは気兼ねもなく楽しかろう。鳥葬だけは痛そうで嫌だ。

 そんな感じ方なので、「まぁ、そういう人生もあるよね」ぐらいの感覚で番組を見ていた。

 番組内容に対しても、大筋、批判的な視点で受け止めた。生涯未婚でも前向きに生きている高齢者たちの映像素材に、不安を煽るBGMをかぶせ、全体的に青白い処理を施し、発言の一部をテロップで切り出すなど、「いかに寂しい独居老人に見せるか」に注力した感があり、その過剰な演出に辟易するところがあった。

 特に気になったのは、環境音の強調である。特殊清掃業者のシーンにはセミの声、無縁墓地にはカラスの泣き声をわざわざ重ねている。他にも車の走る音などの環境音を必要以上に強調し、平穏な社会?に囲まれた中の孤独な死、というギャップを演出することによって、「孤独」をあからさまに強調している。

 正直、私にはこの番組が客観的で真っ当なドキュメンタリーとは思えなかったし、さまざまなテクニックで無理矢理産み出した偏ったイメージは、一時的なインパクトは強くとも、徐々に忘れ去られるはずであると思われたので、その後の続編等を見る気はしなかった。

◇視聴者や社会の受けた「衝撃」に覚えた違和感◇

 ところが、世間ではこの番組が本当に「衝撃」として伝わったらしく、自分が想定した以上の広がりをもって伝えられていたようだ。

 私は時折そんな記事を目にしながら「そんなにニュースバリューのある話なのかな?」と、常になにか言い表せない違和感のようなものを感じていた。

 その違和感の正体を発見したのは、今年に入ってからであった。

 きっかけは、右の記事である。「Business Media 誠:NHK記者が語る、“無縁社会”の正体」(http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1103/10/news030.html

 この記事で読んだ、番組制作に携わったNHK記者の言葉に、無縁社会というテーマに対する違和感の、すべての鍵が揃っていた。

 「行政にすべてを委ねる人が増えてきているのではないだろうか。」

 ああ、なるほど。

 まず理解できたのは、「無縁」という言葉の意味だ。これは「家族や地域の縁が無い状況」といったものを指すと同時に、「行政サービスを受けられない状況」を指して言っていたのだ。

緊急連絡カードを常に持ち歩く高齢者。名古屋市内で。

 ただし、少なくとも私が2010年1月に見た「無縁社会」(初回放送)では、行政の問題は扱っていなかった。恐らくは、「無縁」というキーワードに対して、後からその概念がくっついてきたのだろう。

 すなわち、私が最初に番組を見たときに「そういう人生もあるのに、なぜここまで暗く寂しいものであるように演出するのだろうか」と思った状況に、行政サービスの不備がくっつき、よりいっそう「家族や地域の縁」の重要性を強くした形に、いつの間にやら変質していたのだ。

 この言葉には、「本来であれば、家族がめんどうを見るべきはずが、行政に頼らなければならない人が増えてしまっている」という考え方が内包されている。

 つまり、年老いた人は家族や周囲の人が面倒を見るのが正しいありようで、高齢者が独りで生活をしたり、行政サービスに頼ったり頼れなかったりという状況は正しくないと考えているように、私には思われる。

 しかし、本当にそういう考え方でいいのだろうか?

◇濃密な人間関係とは違う「ネット縁」◇

 2011年2月11日に放送されたNHKスペシャル「無縁社会~新たなつながりを求めて~」の出演者のひとりが、放送された内容に違和感を表明している。(http://getnews.jp/archives/99251

 彼女はニコニコ生放送という、個人で動画の生放送ができるシステムを使って、ネット上で多くの人たちとの縁(ネット縁)を持っている代表として出演をしたが、彼女が紡ぐネットを通した縁のあり方を報じて欲しいという思いとは裏腹に、番組では彼女が現実社会に縁がないから、ネットの縁にすがっているかのように印象付けされてしまったという。

 私は自分で生放送などを放送したことはないが、昔から個人のサイトを持っていたり、メーリングリストやネット上の掲示板で色々な人とやり取りをしている。

 それは確かに希薄な関係であり、家族や親戚付き合いのような濃密な関係性を望むべくもないが、それでも共に楽しい時間を過ごしたり、見知らぬ誰かの言葉に励まされることがあったり、さまざまな情報を得ることもあったりと、得るものは決して少なくない。実際、冒頭に記した通り、この番組を見たのもネット上の縁がきっかけだった。

 私がそうしたネットの縁にお世話になり始めたのは、インターネットが一般化する以前の、パソコン通信全盛の時代、私が東京に出て専門学校に通い出した18歳の頃からだ。かれこれ17年間、人生の半分近くを、何かしらのネットの縁を感じながら生活していることになる。

 そうした環境で生活してきた人は、いまや、決して少数派ではない。もはやインターネットは基本的な生活インフラであり、そのインフラ上でできた縁は、決して特殊なものではないはずだ。

「一人ひとりを包摂する社会」特命チームの初会合であいさつする菅首相(右)。1月18日、首相官邸、飯塚悟撮影

 しかし、インターネットで産まれた縁が、職場や友人や家族といった、人間関係と同質のものになりえるのだろうか?

 職場や友人関係であれば、ネットの縁と同質のものであろうと私は考えている。友人を集めて飲み会をするのも、ネットを介して飲み会をするのも、人の縁としてはさほど違いはない。ただ、その一方で、親や親戚の縁と同質かといえば、それは明らかに別種のものだろう。

 改めて最初の記事を見ると、「無縁」の問題というのは、友人知人といった関係ではなく、親や親戚という濃密な人間関係がないことを問題にしているということなのだろう。

 よく「人間関係の希薄化」というが、濃密な縁を持つ人たちから見れば、ネット上での縁というのは極めて希薄で寂しいものに見えるのだろう。そして、その延長として生涯未婚や独居老人の問題を論じているように思える。NHK的にはネットで縁を結ぶ彼女もまた、そうした独居老人予備軍に見えたのだろう。

◇気兼ねなく受けられない行政サービスの問題◇

 最初の記事に出てくる人たちは、みんな兄弟や親戚から厄介者扱いされている。けれどもそれは彼らが苦しんでいる要因の1つであるかも知れないが、決してすべてではない。

 むしろ問題は、彼らがすんなりと行政サービスを受けられないことだろう。認知症の夫妻は、行政側がサービス提供の必要性を感じているのに、なぜサービスを受けさせることができないのだろうか? 親族からは「そちらでやって」と言われているのだから、やればいいのではないか?

 70代の男性についても、なぜセンターは弟に連絡をとることでしか、彼を救おうとできなかったのだろうか? そして、なぜ彼は支援を拒否したのだろうか。

 貧困問題などに接していると「プライドを捨てても助けを求めるべきだ」という言葉を聞くことがある。弟が用意したアパートを拒否し、生活保護の手続きも取れず死んでしまった彼に対しても同じ言葉が浴びせられるかもしれない。

 しかし、そうした援助を受け入れてしまえば、彼は、他人のやっかいになったことによるスティグマ(罪悪感)に苦しめられることになる。だから彼は人間としてのプライドを守って、援助を受けることができなかったのだろうと、この記事の文面上からは推測ができる。

 そうした状況があるときに、私たちが要求するべきは、彼に対して「プライドを捨てろ」ということだろうか? そうではないだろう。私たちは、行政に対して「プライドを捨てずに受けられる社会保障を整備しろ」と要求すべきである。

 すなわち、家族や地域の縁といった「別の何か」を経由して行政サービスを届けるのではなく、困っている当人に何の気兼ねも感じさせず行政サービスを供給できる体制をつくることこそが重要である。

 人の縁が無いから行政サービスが受けられないと嘆く人たちは、人の縁を行政サービスの前提と認識しているか、便利な下請けかなにかと勘違いしているのではないだろうか。

「親孝行代行サービス」を立ち上げた内海さん夫妻。静岡県南伊豆町で。

 そう考えると、無縁社会的な考え方とは、人の縁を「希薄な縁」と「濃密な縁」に二分し、そのうちの「濃密な縁」と行政サービスが組み合わされることを、人間の社会生活の基本として考えているということが理解できる。

 しかし、本当は「縁」と「行政サービス」は関係のない、まったく別のレイヤーの話のはずである。

 人間関係が希薄だから行政サービスが受けられないというのは、単純に「行政側の不備」なのだ。

◇「無縁」でも生きられる豊かな社会を◇

 個人の人間関係など、濃密でも希薄でもいいではないか。

 私は

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