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いわき市小名浜で「家族」「ふるさと」「未来」を考える――東日本大震災・いわきから(2)【無料】

小松浩二(フリーライター・編集者、福島県いわき市在住)

 故郷を離れて避難するのか。それとも家族とともに残るのか。福島県いわき市小名浜で地震と津波に遭ったフリーライター・編集者の小松浩二さんも、家族とともに思い悩んだ一人だ。原発事故によって、否応なく究極の選択を迫られた福島・いわきの人々は、何を考え、どのように生きようとしているのか。

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 震災から9日目を迎える3月20日、私は、新潟での3泊4日の避難生活を終え、自宅のあるいわき市小名浜へと帰ってきました。日本中の人たちが、福島第一原発の状況を固唾を飲んで見守るなか、私は「禍中」とも言える、いわき市へと戻ってきたのです。新潟では、心休まる時間を過ごすことができました。でも、ずっとふるさとのことが引っかかっていました。今は、不安よりもむしろスッキリとしています。

 3月11日午後2時46分。あれから自分の身に何が起き、どう行動したのかを思い返しています。はっきり覚えているのは、母と祖母を近くの小学校へ避難させ、父の帰りを待っていたこと。毎日何度も水汲みをしたこと。そして、食い入るように原発のニュースを見ていたこと。そのくらいです。原発のニュースは分刻みで深刻さを増し、原発から40キロの小名浜に住む私たち家族も、重大な決断を迫られていました。

 私には、交際している女性がいます。新潟に住む彼女からは、毎日のようにメールがきました。携帯電話の受信ボックスを見返すと、はじめは状況を確認するだけの内容が、やがて懇願するような口調へと変わっていました。3月15日のメールにはこうあります。「未来に生まれてくる子どものためにも、避難して欲しい」。放射線が、男性の生殖機能に影響を及ぼす恐れがあるという情報を受けてのメールでした。

甚大な津波被害を受けたものの、復興に向けて少しずつ動き始めているいわき市小名浜の街並み。=3月21日(写真:小松浩二)

 3月16日の夜、両親に避難を提案しました。彼女の実家に、祖母を入れて4人一緒に避難させてもらおうと。父はいつになく重苦しく、「ばあちゃんまで連れて世話になるわけにはいかない」と提案を拒みました。母は、もとより父を支える心づもりです。陰鬱な夕食でした。

 ところが、それからしばらく経って、父が私を呼んでこう言いました。「お前には将来があるのだから、1人ででも行きなさい」。母は「お父さんにはわたしがついてるから、彼女に元気な顔を見せておいで」と、避難を後押ししてくれました。私は、そんな両親だからこそ、一緒にいたいと思いました。一方で、新潟に住む彼女にも元気な姿を見せてあげたい。自分はどうすればいいのか。「究極の決断」を前に、胃がキリキリと痛み、一睡もできませんでした。時間は無情に過ぎ、原発の問題は深刻化していきます。

 私は、長い自問の末に、「未来」を考え始めました。母からもらったこの命を次に受け継ぐことこそ、私の使命ではないのか。ならば、最悪の事態を想定して、私だけでも避難するべきではないのか。確信は持てませんでしたが、3月17日の太陽が昇る頃、私は1人で避難する決意をしました。

 父は、ガソリンが多く残ったほうの車を差し出してくれましたが、そのキーだけは受け取れませんでした。私は、ガソリンが少ないほうの車に自転車を積み込みました。いざとなったら自転車で助けを呼べるように。今から思えば笑ってしまうくらい大げさな決意でしたが、その時は、真面目だったのです。

 出発するとき、父と無言で握手をしました。母を抱擁しようと思って体を寄せましたが、「なにそんな大げさになって。温泉にでも行くつもりで気軽に行ってきなさい」と言って拒み、しばらくはにかんでいました。母は、私を少しでもリラックスさせようとしていたのでしょう。私も、できるだけ平静を装い「じゃ、行ってくるね」と挨拶し、車に乗り込みました。感謝。その言葉しか思い浮かびません。

 新潟へ向かう途中、母がくれた紙袋の中を見てみると、中には、貴重なペットボトルの水と、おにぎりが3つ入っていました。大きな、昆布と梅干しと鮭のおにぎり。いつもの母の味です。母は、どんな気持ちで、そのおにぎりを握ってくれたのだろうか。どんな気持ちで、私を見送ってくれたのだろうか。ぼろぼろと涙がこぼれていました。

 私が新潟へ避難して間もなく、父は、親戚から懇願されたこともあり、重い腰を上げて東京の叔母の家に避難することを決めました。私も安心して、4日間ですが、ゆっくりと心身を癒すことができました。ところが、新潟で時間を過ごせば過ごすほど、ふるさとのことが気にかかり、「今、自分はこんなところでゆっくりしていていいのだろうか」と、焦るような気持ちになってしまったのです。そして今、この文章を、小名浜の自宅で書いています。

震災直後から井戸水を開放するなど、支援活動の最前線に立ってきた海産物店「さんけい」の松田義勝社長(左)と女将の順子さん。=3月21日(写真:小松浩二)

 私は、いわきから県外へ避難している人を批判する気は毛頭ありません。だって、外に出た人にしかわからない思いも、いわきへ残ろうという決意も、両方知っているから。いわきの人たちは、どこにいても、ふるさとへの思いを胸に、さまざまな不安と対峙しながら、強く生きています。そんないわきの人間であることを、私は誇りに思っています。

 いわきに暮らす多くの人たちが、震災や原発問題を通して、「家族」や「ふるさと」というものに、かつてないほど向き合ったことだろうと思います。そこで出された答えは、正解などありやしない。いや、どれも正しいのだと思います。地震。津波。そして、放射能と闘いながら、「極限状態」を通して深めた絆だからこそ、その絆が、また何者かによって切られてしまうことがないように。原発問題が一刻も早く沈静化することを願うばかりです。

 私は、いわきに残ります。新潟の彼女にも、その気持ちを伝えてきました。両親も、祖母も、近いうちに帰ってくるはずです。しばらくは、見えない敵との闘いが続きますが、いわきがかつての賑わいを取り戻すその日まで、いわきで暮らす毎日を、編集者として、書き残していこうと思っています。やがて生まれてくる、未来の子どもたちのために。

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 ■小松浩二(こまつ・こうじ) 1979年、福島県いわき市小名浜生まれ。元福島テレビ報道部記者。会社員の傍ら、小名浜をテーマにしたウェブサイト「tetote onahama」(http://www.tetoteonahama.com/)を主宰している。