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わたしは福島に残る――明治の三陸大津波に学べなかった原発事故

星亮一(作家・福島県郡山市在住)

 今朝(25日)の朝日新聞を見て、来るべきものが来たと衝撃を受けた。

 そこには「汚染、スリーマイル超す」と1面トップにあった。

 仕事がら、そうした情報はかなり早い段階で入っていた。

 私が住む郡山市はほぼ福島県の中央、福島第一原子力発電所からは、60キロほどのところにある。政府が定めた退避圏の外にあるが、アメリカの原子力研究者がいう80キロの危険区域には入っている。

 気がきいた友人は、既に東京や関西に脱出し、金沢まで退避した人もいた。彼らは毎日、メールをよこし、新潟か山形に退避すべしと警告してくれた。

 「いまさら逃げても仕方がないよ、私はここにいる」

 そう言い続けて来たが、どうなるのかという不安は、正直、消えることはない。

◆   ◆   ◆

 地震と津波、そして放射能の汚染は、私の生活を一変させた。

 あの地震の日、私は郡山市の駅前にあるビルの6階で、校正の作業をしていた。

 4月下旬刊行の『大鳥圭介』の原稿である。

 いまから140年ほど前、会津若松でせい惨な戦争があり、約3000人の会津藩士とその家族が命を落とした。

 会津藩は幕府の命令で、京都に向かい、京都の治安維持に当たっていたが、尊王攘夷、討幕運動の渦中に巻き込まれ、ついに会津若松で1カ月に及ぶ籠城戦を余儀なくされ、刀折れ,矢尽き降伏した。その時、会津の援軍に来ていたのが、旧幕府歩兵奉行の大鳥圭介だった。その伝記を書いたのである。

 校正作業中、突然、携帯がけたたましい声で地震を告げ、次の瞬間、ビルは大きく揺れた。

 急いで廊下に出たが、ビルが波打って歩けない。

 階段の手すりにつかまり、腰をかがめてやっと1階に退避すると、道路は避難した人でいっぱいになっていた。あとで部屋に戻ると、本棚は破壊され、書籍が部屋いっぱいに散乱し、パソコン、電話、コピー機、ポット、あらゆる物がひっくり返り、足の踏み場もないあり様だった。

◆   ◆   ◆

 翌日から余震が続くなか必要な本や書類を探し出し、自宅に運ぶ毎日だった。

 私はどうしても探したい本があった。

 『哀史三陸大津波』である。

 気になることがあって古書店から買い求めた本だった。

 どこに行ってしまったか、なかなか見つからない。昨日、ようやく見つけ出した。著者は大正13年(1924)に岩手県気仙郡綾里村に生まれた山下文男さんで、綾里村は現在、大船渡市に編入されており、今回も高さ23メートルの津波が押し寄せ、大変な被害をだした。

 山下さんの本は、明治29年(1896)6月15日に三陸一帯を襲った三陸大津波を克明に追いもとめていた。

 この時の死者は岩手県で1万8158人、宮城県3387人、青森県343人、合計2万1888人とあった。今回は既に2万7000人を越えているが、明治の津波も今回に匹敵する大惨事だった。

岩手県釜石市の菊池新之助さん。祖父は1896年の明治三陸大津波、父は1945年の艦砲射撃を経験したという。

 この事実をどれだけの人が知っていたのだろうか。

 私は学生時代、綾里村に漁村の経済史の資料調査に行った事があり、津波の事も聞いていたが、リアス式海岸に美しい風景だけが印象にあり、津波の事は全く忘れていた。ただどこかに三陸大津波の残映があり、東京の古書店で見かけた時、買い求めていたのだった。

 明治の大津波は、今回と全く同じだった。

 私は若い時代、福島民報の記者だったので、どうしても取材が気になる。

 当時、際立った報道を見せたのは「東京日日新聞」だった。

 石塚、佐伯の2名の記者は一報が入るや東京から東北本線で仙台に向かい、佐伯記者は宮城県を担当、志津川町にむかった。今回、大被害があった南三陸町である。「車馬人足ともに欠乏」、草鞋ばきで、泥田のような道を歩き、18日の真夜中に志津川に到着した。ここから北へ北へと歩き、最後は釜石まで取材した。人力車、馬、なんでも利用した。

 石塚記者は岩手県の担当で花巻から遠野を経由して、釜石に入ろうとした。遠野までは人力車があったが、遠野には人力車はおろか一頭の馬もなかった。釜石への食糧輸送に徴発されていたのである。仕方なく人夫を一人雇い、標高887メートルの千人峠を越え、釜石に入ったのは、19日午後4時だった。

 津波発生から4日たっていた。石塚記者は翌朝、「在釜石石塚特派員特電」として東京に第一報を送稿した。

明治時代に三陸海岸を襲った「三陸大海嘯」の絵巻(左ページ)を手にする長松敏明さん=福岡県行橋市

 「人生惨事多しといえども、おそらく大津波のいたむなるより甚だしきはなからん。予、今、この地に来たりて各地被害の状況を諸君の前に報ぜんとしても、筆をとれば惨憺たる光景歴々として、眼前に映じ来るも、いかに文字に写して可なるべきかを知らず」

 「生存者茫然たり。万死の中に一命を拾いたれど父母は死し、妻子は行方知れず、家具などはことごとく流出して手に一物もとどめず、さなれば、なすべきこともなく、みな茫然として磯辺に座し、うらめしげに海上を睨むのみ」

 とあった。

 「食うに食なし。着るに衣なし」

 「津波の波高は低い所で2から3メートル、中には20メートル、30メートル」

 「狂瀾怒涛、一潟千里の勢いで浦々に密集する町や集落を襲う」

 この本はこうした文字で埋め尽くされていた。

◆   ◆   ◆

 地元の人々は、この津波を語り継いで来たであろうが、日本人全体は三陸津波をほとんど何も知らずに過ごして来たと言ってよいだろう。

 原子力発電所の大事故は、福島県のみならず、日本国の未来にも暗い影を落としている。

 三陸大津波の知識を持っていれば、原子力発電所の施設が津波に流され、放射能がもれる事故も防げたはずであった。

 原子力発電所には、これと言った大津波の対策はなかった。

 我々日本人は、歴史の教訓も忘れ、浮かれた生活を送りすぎた。

 歴史を忘れてはならない。私が戊辰戦争にこだわり続けているのも、

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