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「まだら模様」の被災地再生に知恵を絞れ――東日本大震災・いわきから(3)

小滝ちひろ(朝日新聞奈良総局編集委員、福島県いわき市出身)

 地震、津波、そして原発事故――。福島・いわきが見舞われた「三重苦」のなかでも、津波の被害は、海岸線や湾のかたち、水深など地形によって被害の程度が大違いだという。朝日新聞奈良総局の小滝ちひろ記者が、実家のある小名浜から北東へ、永崎、中ノ作、江名と海岸線に沿って歩いた。※asahi.comの関連記事は「水なし燃料なし鉄道なし3日 いわきの母連れ疎開ルポ」http://mytown.asahi.com/areanews/nara/OSK201103170075.html

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 若いまち いわき 伸びていくいわき/さわやかな 海の夜あけに/夢をはらんで 満ちてくる潮/あふれるのぞみ いわき/あふれるのぞみ いわき/みんなで 呼ぼう 幸せをここに

写真1

 子どものころ、いわき市内のデパートに行くと必ず、この歌が流れていた。小学校で何度も歌わされ、中年になった今もそらんじることができる。乗田まさみさんという方が作詞し、いわき出身の詩人・草野心平さんが補作した、いわき市歌だ。

 いわきは東北地方の南端にあって雪もさほど降らない温暖な地。延長約60キロという太平洋岸の海岸線には約10カ所の海水浴場があり、冬でも関東あたりからサーファーがやってくる。その海のそばに育ち、この歌詞のとおりの故郷だと思っていた。

写真2

 ところが、地球の片隅が一瞬身震いしたとたん、「満ちてくる潮」は「悪夢」をはらんで押し寄せてきた。

 震災から2日後の3月13日、同市小名浜の実家へ戻った。その時は、78歳になる老母を市外へ疎開させることだけで精一杯だった。

2週間後、水道の復旧を機に母が帰宅するのに合わせて再びいわきに入り、海岸線に沿って歩いてみることにした。

 実家から1キロ南へ向かうと小名浜港に出る。漁港の周辺には、サンマの水槽内繁殖に世界で初めて成功した水族館や観光客向けの水産品販売施設などがあり、週末はけっこうにぎわう。

 しかし、あの日から様相は一変した。

写真3

 岸壁のあちこちに陥没や亀裂があり、大小様々な船が岸に乗り上げたり、横転しかけたまま放置されていたり。観光施設は休止か閉鎖。2階は残っているものの、1階部分が波に洗われて骨組みをさらしている建物も目立つ。

 港の内外を1周する観光船の船着き場には、大きな台船が2隻、並んで岸壁に鎮座していた(写真1~2)。海に浮かんでいれば小さく見える船も陸にどっかと座り込むと、これほど大きかったのかと驚かされる。宮城や岩手の被災地では、波に翻弄された船が町を破壊することになったというが、それもわからないではない。船が港内にとどまった小名浜はまだまだ、傷が浅い方だったのではないか。

写真4

 港から北東へ歩く。海岸線から道路を隔てただけの場所に連なる家は、ほとんどが1階部分に修復不能な傷を負っていた。ガラス窓が割れ、壁を飛ばされ、まるで巨大な獣が内蔵だけを食い散らかしていったかのようだ。家具と言わず電化製品と言わず、屋内にあった品物のほとんどが潮をかぶって壊れ、歩道に積み上げられていた。

 そんな中で1軒、壊れていないガラス窓に何カ所もガムテープを貼り付けた木造住宅が目についた。テープには「ツナミココマデ」と書いてある。誰に見せるでもないが、津波の証拠を残さなければと貼ったという。

写真5

 「200メートル前の堤防が壊れて津波が来ました。戸や窓を閉めていたことや、波とともに押し寄せたがれきが積み重なって水の侵入を防ぐ形になったこともあって、床上への浸水は免れました。でも……」。ここより2メートルほど低い場所にある隣家は1階をえぐり取られていた。

 さらに北東へ進み、永崎地区に入る(写真3~7)。砂浜が延長1キロは続き、市内でも指折りの海水浴場として知られる場所だ。それに沿って走る県道の向こうに住宅地が広がる、典型的な海辺の集落でもある。

写真6

 町はすでに、町のていをなしていなかった。柱や壁が消え、だるま落としに遭ったように屋根だけが地面に落ちた家。がれきの中に、石製の門柱だけが元の位置に立ちつくす屋敷。コンビニの店内は陳列棚や冷蔵庫が爆撃を受けたように壊れていて、お金を抜き取った後のレジスターだけが店外に転がっていた。

 河口の両脇に立つ建物は川を駆け上がった波に足元をごっそりと持って行かれ、川の中へ倒れ込んだままだ。崩壊した橋の上では、作業員が電線にぶら下がるようにして復旧作業をしていた。

写真7

 集落内の道脇には回収されないままのがれきが積まれ、車1台の通行がやっと。波に運ばれた砂が風に飛ばされ、目が痛い。「市はなにしてんだか。このゴミいつ取りに来るか、あんた知ってっかい?」。電話工事の交通整理をするガードマンは不満たらたらだった。震災から半月だが、がれきやゴミの撤去は進んでいなかった。

 北に隣接する漁港、中之作、江名などの地域も、海岸近くの家屋が被害を受けていた(写真8~10)。しかし、波の高さや強さ、方向によってその度合いはかなり違う。数メートル高い場所にあったがために、ほとんど無傷だった住宅もある。

写真8

 さらに北の、豊間、久ノ浜といった海岸部はもっとひどい、壊滅的な打撃を受けたと聞く。しかし日暮れを迎えてしまい、確かめることをあきらめて引き返した。

 沿岸約25キロを歩いてみてわかったのは、地震より津波の被害が甚大なこと、被害地点が複雑なまだら模様を描いていることだった。沿岸部を少しでも離れると、震度6弱だった地震の影響は、屋根瓦が落ちたり、大矢石を積んだ塀が倒れたりといったものが目立つが、全壊した建物はさほど多くないように見えた。

 一方で、津波はその力を見せつけた。それでいて、永崎地区のように全体が激しく痛めつけられたところは別として、海に近い数軒が全壊しても数十メートル先で無傷の住宅があるエリアもあった。

写真9

 町のほとんどすべてが失われた地域の再興も難題だが、被災の程度がまだらに入り組んだ地域の「再生」も簡単ではないだろう。

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