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ケータイがダメでも困らない心の準備を

倉沢鉄也

倉沢鉄也 日鉄総研研究主幹

災害は都度多くの人を不幸に陥れ、この時点で災害同士を比較することは不謹慎なのかもしれないが、過去から学び現在を論じればこそ未来の改善が開ける、という前提で、今回の震災におけるメディアの姿を謹んで論じさせていただく。

 震災とメディアの姿、という概念は、切り口が多岐にわたる。報道機関としての取材や編集のあり方(知る権利とプライバシーと被災者感情、など)、平時の番組編成との異動とその都度の受け止め方(震災3日後のアニメ放映は不謹慎か、など)、買いだめ行動やデマ・噂話に対応する情報処理能力の啓発(計画停電の予定は必ず一次情報で把握する、など)、なども論じるべきところ、本稿では災害時に情報通信媒体はどう使われるのか、使われてしまうのか、という観点に絞ってみる。

 阪神淡路大震災から今回の震災に至る16年間の間、人々の利用する情報通信メディアは劇的に変わった。阪神淡路大震災ではケータイで連絡を取り合える人はごく少数であり、eメールの利用も皆無で、モバイル情報ツールはラジオであった。阪神淡路、新潟、の両震災では、速報を担うNHK等の全国放送と、安否情報等の詳細を担うローカル放送局(県規模)・コミュニティラジオ放送局(市町村規模)が被災者の役に立ったことがNHK放送文化研究所の調査結果として報じられている。

 現代において、モバイル情報ツールは一部の子どもと高齢者を除き、1人1台ケータイを持っている時代となった。災害時のケータイの便利さ不便さは、こうした災害時に顕著に出現する。今回の震災でも報道されているケータイの姿は、その両面を映し出している。

 ご存知の方も多いと思うが、そもそも通信という技術は発信と受信が1対1の関係で作られており、その応用として1対n(一斉同報)の応用技術が発展してきているので、緊急時などの通信「量」が増えれば通信回線は輻輳(ふくそう:パンク、渋滞)し届かない。とくに

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