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 大津波に襲われた岩手県に入って3週間になります。その多くを市街地の8~9割が壊滅的な被害を受けた陸前高田市に通っています。

 私は初任地が岩手の盛岡総局でした。陸前高田は当時も取材に行き、20年以上たった最近も、ここ数年何度か足を運んでいました。この地は、かつて緑深き松林と青い海、そして白い砂浜が広がっていました。

 しかし、震災後足を踏み入れると、その姿はみじんも残っていませんでした。海のすぐ近くにあった野球場は、照明の鉄塔4本だけがその姿をとどめるだけです。私が泊まった駅近くの旅館も、その近くの、おいしい魚介類を出してくれた居酒屋も、お昼を食べたおそば屋さんも、何もかもが跡形もありません。建物という建物がほとんど姿を消しています。あるのは、がれきの山が広がる景色だけです。その街の様子に、ただただ言葉を失い、立ちつくす以外にありませんでした。

 津波が来たとき、野球場の鉄塔の照明だけが海面の上に出ていたと聞きました。見上げるほどの高さです。どれほどの大波が街をのみこんだのかがわかります。

 取材する中で、この大津波の中、奇跡的に助かった人の話を聞きました。あまりのショックに話すことができない人が少なくない中で、何とか探し当て、記録に残す必要があるとして、語ってくれた人たちでした。指定避難所のひとつだった市民会館で生き残った県立高田高校の水泳部員のことは、4月10日の朝刊で詳しく報じました。その記事の中で、少しだけ紹介させていただいた人が、市職員の佐々木英治さん(38)です。

 佐々木さんは、指定避難所の市民体育館に併設されていた中央公民館の主任主事でした。体育館はとりあえず住民が逃げる1次避難所であると同時に、避難者が宿泊することを前提としている2次避難所でもありました。また、市の中心部である高田地区の災害対策本部を設置する場所としても指定されていました。

 3月11日、地震が起きた直後に、体育館や公民館の利用者や職員が約80人がすぐ前の広場に集まり、そして、その後も近隣の住民が続々と避難してきたそうです。佐々木さんは、出先から戻ってきた駐車場で揺れを感じました。すぐに体育館の事務所に、鳴りっぱなしになっていた非常ベルを止めに入り、そして、ラジカセと電池を探しました。その間、体育館の前の広場に集まってきた避難者に、ほかの職員が災害用にストックしてある毛布を運び出して、渡していたそうです。

 佐々木さんがラジオのスイッチを入れてまず耳に飛び込んでいたのが、「6メートルの津波が来る」という放送でした。すぐに避難者を体育館の観客席の後方にある2階フロアに誘導しました。車いすの人や足が不自由なお年寄りもいました。職員らが協力して手を貸し、階段で2階へ上げました。その最中に第1波が来ました。2階から家が次々と流されているのが見えました。「これはひどい状況になるなあ」と思った佐々木さんでしたが、まだ冷静でした。体育館の2階は大丈夫だと言われていて、佐々木さん自身もそう思っていたからです。

 消防団の人が2,3人、道で避難誘導をしているのが見えました。「早く上がれ!」と大声で叫びましたが、まもなく彼らは波にのまれました。と、次の瞬間、体育館の海側の窓ガラスを破って一気に波が入ってきて、2階フロアの南側、つまり海側に避難していた人たちも津波に襲われました。避難者が重なるように、北側へ通路を走りました。佐々木さんもその中にいました。

 が、気が付くと、水中に投げ込まれていました。水を大量に飲んでいました。真っ黒な波の中でもみくちゃにされます。どれぐらいの時間がたったでしょうか。もう息が切れそうでした。「だめかもしれない」。死を覚悟しました。

 その瞬間、11歳、7歳、2歳の3人の子どもたちの顔が浮かんだそうです。もう一度、息を止める力がわいてきたといいます。「何とかしたい」。もがいていると、体が上の方に浮いていっているのを感じました。手を伸ばすと、鉄の棒に触れました。その棒をつかんで引き寄せると、顔が水面に出ました。何とか息が吸えました。といっても、頭は天井にあたり、天井から水面までは30センチほどしかありません。

 真っ暗の中、水位がどんどん上がっていきます。「今度こそ本当にだめかもしれない」。2度目に死を意識しました。何とか息をすることができ、しばらくすると、水が引いていきました。

 暗闇の中、女性の声がしました。「お父さん、お父さん」という女性の声。「大丈夫ですか」と声をかけると、再び「お父さん?」と返ってきました。「お父さんじゃありません。ここの職員です」と答えると、「手をつないでいたけどいなくなった」と女性は、夫の行方を心配していました。「出口を探してみますから」と佐々木さんは言って、暗闇の中を手探りで歩きました。すると、扉があり、そこが何とか開きました。

 2人は天井近くの点検庫に押し流されていたようでした。でも、その扉から2階フロアまでは3~4メートルの高さがあります。下はがれきがいっぱいです。思い切ってそこから飛び降りました。2階のフロアのすぐ下のところまで波が来ていました。生存者はいないかと通路を少し北側に歩くと、遺体の山が目に入りました。「あー」「うー」という声が聞こえましたが、どこから聞こえるかもわかりません。どうすることもできませんでした。

 生存者は、佐々木さんのほかに、女性と、別のところから2階フロアに飛び降りた一般の男性の3人だけでした。

 びしょびしょにぬれた3人は凍えるような寒さの中、あと少し、もう少しと、体をさすりあい、肩を組みながら一夜を過ごしました。しかし、時間はなかなか進みません。「死ぬほど長かった」と佐々木さんは振り返ります。

 夜が明け、3人は自分たちの足で高台に向けて歩き出す決意をします。がれきの街を歩き、佐々木さんは高台の自宅に戻ります。

 「ただいま! 何とか生きて帰ったぞ」。家族と抱き合って泣きました。服を着替えて、体を温めました。停電で水も来ていません。その足で、被災を免れた車を運転して、家族で隣町まで買い出しに行きました。戻ってきてから数時間休み、夕方、臨時に市の対策本部に出て、それからずっと働き詰めです。いまは物資の配送の区分けの責任者として、午前6時から夜中の24時ぐらいまで毎日働いています。

 市の対策本部に出たとき、同僚の市職員の多くが亡くなっているか、あるいは不明になっていることを知りました。約300人の正職員のうち70人が死亡または不明です。このとき、佐々木さんには「自分だけが助かった」という思いがわき起こったといいます。「自分だけ申し訳ないという思いが強くて……」。そう語りながら、佐々木さんは目を赤くしました。

 その後も同僚の親に顔を合わせると、「うちの子はどうなったか?」と聞かれ、そのたびに「よくわからない」としか答えられないことが申し訳なくて……、と涙ながらに話してくれました。同僚だった女性の夫と会ったときは、抱き合って「ごめんな」と謝ったといいます。

 涙ながらにそんな話をしてくれる佐々木さんに、私はかける言葉を見つけることができませんでした。ただ、黙って手を肩に触れることしかできませんでした。

 「たまたま生き残った。運としか言いようがない。いた場所がよかっただけだと思う」と佐々木さんは言います。ですが、同時に、「生かされた。だから、できることはやっていきたい」とも語ってくれました。

 「この土地を離れる気はない。陸前高田をもう一度復興、再建したい」

 どれだけの思いが、その言葉に詰まっているかを考えると、胸が詰まります。

 陸前高田市の死者と行方不明者を合わせると約2500人に上ります。これは市の人口の1割強にあたります。その1人ひとりに、3月11日午後2時46分まではふつうの日常がありました。彼らは、突然訪れた最期にどれほどの無念の思いを抱いていたでしょうか。最期まで職務に徹して波にのまれた人も少なくありません。そして、それらの死に対しては、彼らの家族、知人、友人らのもって行き場のない悲しみがあります。知人、友人を含め、失った人はだれもいないという人には取材でも会ったことがないほど、ほとんどすべての人がその思いを抱えています。

 阪神淡路大震災などと異なるのは、いまも約1200人は行方不明ということです。遺体を探し続ける家族が多数います。

 市役所など行政機関をどこに再建し、学校や商業地域をどうするのか。仮設住宅の土地の確保さえまだわからない状況に、陸前高田市の将来はいまは全く見えない状況です。

 今回の大震災で、破壊的な自然の力の前では、人や人が作ったものはなんとちっぽけな存在なんだということを痛感しました。が、同時に、その中で、本当に厳しい状況の中を、本当によくぞ生き残ったといえる人たちがたくさんいます。大きな自然の力の前ではちっぽけな存在でしかありませんが、一方で、人の身体的、精神的な強さを感じずにはいられません。同時に、この、がれきと化した街で、途方にくれるような景色の中で、多くの人たちが再建を誓って前を向いて歩こうとしている姿に、人間の崇高さを感じます。

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筆者

大久保真紀

大久保真紀(おおくぼ・まき) 朝日新聞編集委員(社会担当)

1963年生まれ。盛岡、静岡支局、東京本社社会部などを経て現職。著書に『買われる子どもたち』、『こどもの権利を買わないで――プンとミーチャのものがたり』、『明日がある――虐待を受けた子どもたち』、『ああ わが祖国よ――国を訴えた中国残留日本人孤児たち』、『中国残留日本人』など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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