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行き過ぎた自己責任と個人的人災化が緩む

武田徹

武田徹 評論家

近代社会は成熟という名の下で「不確実性の駆逐」に向けて進んでいた。情報化の進捗により、状態を情報的に掌握できる対象は「カンバン方式」の対象となる工場部品だけでなく、ものの流れやひとの在り方のかなり部分にまで広がっていた。たとえば移動体通信の普及は個人をどこでもいつでも連絡可能、制御可能な存在に変えたし、インターネットの普及も個々人のネットワーク化を進めた。そして各種シミュレーション技術の進歩は、未来すら予想可能なものとして捉えようとしてきた。

 そうした不確実性を縮減させるかたちで進む情報化の趨勢の中に日本社会も置かれていたが、しかし、その流れが東日本大震災で断ち切られる。余震がいつ起きつか分からない。マグニチュード8クラスの大地震が誘発されると懸念する学者もいる。停電そのものは計画的に実施されていたが、その影響がどう現れるかは不透明だったし、夏にも電力不足が予想されている。原発は予断を許さない状態であり続け、放出された放射線の影響に至っては「ただちに健康に影響がない」と説明されてはいるが、ならば将来はどうなるのかと不安を掻き立てられる。

 こうした状況の中で進む変化を筆者はリスクの「非人災化」と呼びたい。不確実性を駆逐し、全てを掌握できるようになるにつれて、個々人の責任の範囲は拡張されてゆく。かつてなら待ち合わせ時間に遅れるとしても、大雨で電車が遅れたからだと他人行儀な言い訳ができた。しかし携帯電話の普及後は、遅れそうであれば事前に連絡を取って善後策を協議することが可能となった。そうなると、待ち合わせに遅れ、仕事に支障が出た場合は、そうした被害軽減活動をしなかった過失に起因する人災ということになり、当然、自己責任が問われることになる。

 こうして近代社会は人災の領域を増やす「人災化」を進めていたのだが、震災は改めて個々人の努力ではどうしようもない状況を作りだした。

 管理社会化の中で進んだ「人災化」は個々人に全ての責任を帰そうとするので個人的にはしんどい。今回、社会が不透明となって、そのしんどさから逃れられた面もあるのだろう。弱い立場として常に上から自己責任を問われるしんどさを一身に感じていただろう若い世代が案外と飄然としている--。大学で彼らに触れて、そう感じることがあるのはけなげなやせ我慢もあるのだろうが、一方で自分に帰責されない領域が増えたことで解放感を感じる面も実はあったからかもしれないと思ったりする。

 たとえば就職難で負け組になるのは自分の努力不足が原因だと言われ続けてきた彼らが、就職試験直前に停電して資料が読めなかったとか、放射線に関する報道に触れて不安で気分が悪くなって面接に失敗したとか、社会的に納得を得られる理由を挙げられるようになった。

●個人的選択と社会的選択

 しかし、若者には、そこでちょっと待って欲しいと言いたい。確かに人災の領域は減ったが、 ・・・ログインして読む
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筆者

武田徹

武田徹(たけだ・とおる) 評論家

評論家。1958年生まれ。国際基督教大大学院比較文化専攻博士課程修了。ジャーナリストとして活動し、東大先端科学技術研究センター特任教授、恵泉女学園大人文学部教授を経て、17年4月から専修大文学部ジャーナリズム学科教授。専門はメディア社会論、共同体論、産業社会論。著書に『偽満州国論』、『流行人類学クロニクル』(サントリー学芸賞)、『「核」論――鉄腕アトムと原発事故のあいだ』『戦争報道』、『NHK問題』など。

 

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