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地方の郊外化を肯定した知識人の転向

三浦展

三浦展 三浦展(消費社会研究家、マーケティングアナリスト)

3・11から二ヶ月近くが過ぎ、ようやく冷静にこの事件を論じることができるようになってきたと思う。

 このたびの津波があまりにも巨大で、一瞬で町、村を飲み込み、家も店も工場もなくなったということを、日本中の、いや世界中の人々が哀れんでいる。

 だが、自然災害だから、一瞬だからということに目を奪われすぎると、東北地方にとってのこの災害の意味を一面的にしか見ないことになるのではないかと思えてならない。

 東北地方では(東北地方だけではないが)この20年から30年ほどの間に、かなり生活が変わってきた。自動車が普及し、ショッピングモールなどの大型商業施設が増えた。役所、病院、大学なども郊外に移転した。そのためますます自動車が不可欠となった。

 1980年の東北地方の乗用車保有台数は186万台だったが、2010年は492万台である(東京都は181万台から314万台)。一家に数台の自動車を持ち、買い物、通勤、子どもの通学の送り迎え、通院などなど、生活のすべてにおいて自動車を使うようになった。

 そのため、自動車では行きにくい中心市街地、駅前商店街、旧街道沿いの商店街などは衰退し、シャッター通りになった(なりつつある)ことは周知の事実である。かつての市民なら誰でも知っていた老舗商店、誰もが行ったことのある映画館、誰もが日曜日に晴れがましい気分で買い物に行った地元百貨店などなどがつぶれていった。

 こうした地方の衰退について、私は過去ずっと疑問を呈し、大型商業施設の郊外出店、行政施設などの郊外移転を批判してきた。郊外化のすべてがいけないわけではないが、近年の郊外化は明らかに既存の中心市街地の持つ伝統、歴史、文化を根こそぎ衰退させていると思ったからである。

 ところが、私とは違って、こうした郊外化を今までずっと肯定してきた人たちがたくさんいる。そうした人たちは、大手流通資本にいただけでなく、新自由主義的な経済学者にいただけでもなく、いわゆる知識人、文化人、ジャーナリストなどと呼ばれる人々にも少なからずいた。朝日新聞にもそうした人々が大手を振って原稿を書いてきた。

 ところが、このたびの大震災では、それらの知識人たちですら、地方の生活、歴史が一瞬にしてなくなったのは大変だといった意味のことを述べている。彼らは本気でそう思っているのだろうか。大資本が経営する大型商業施設が地方の固有の歴史、人々の生活の歴史、人々の記憶などなどをぶちこわしていることを肯定しながら、津波が町をこわすのは大変だというのはどういうことか。それは私には一貫性のない議論に思える。

 テレビや新聞で見る限り、今回被災した人々の少なからぬ人々が、震災前の暮らしに戻りたいと考えているようだ。壊滅的な損害を被った漁師たちが、もう一度漁がしたいと言い、その漁師の息子たちもまた父親のような漁師になりたいと言っているのを見て、私は職業というものが人間にとって金を得る手段というだけでなく、まさに人間の精神であることを改めて実感した。同じ町で同じ仕事をしたい、祖父や親と同じ仕事がしたい、そう思う人々がこれほどたくさんいる地域は、素晴らしい地域だろうと私は思う。

 ところが、大資本による大型商業施設が郊外に進出すれば、中心市街地で何十年、もしかすると何百年も続いてきた商店ですらつぶれてしまう。そこで

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