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被災者の声を伝えることに徹して

川本裕司

川本裕司 朝日新聞社会部記者

東北地方のブロック紙・河北新報の武田真一報道部長が17日、マスコミ倫理懇談会東京地区の5月例会で「東日本大震災をどう伝えたか」と題し講演した。津波に巻き込まれながら九死に一生を得た記者、災害時協定を結んでいた新潟日報の協力のもとでの紙面制作、収まらない余震に怯えながらの取材……。震災報道の軸は「被災地の声を届けることに徹する」と見定めた。地方紙としての役割を再確認しながら走り続ける一方で、「中央目線」の報道や海外メディアから受けた決めつけるようなインタビューへの疑問も表明した。

 震災があった3月11日、宮城県内にある河北新報の取材網は危機にさらされた。志津川支局(南三陸町)の局舎は、津波で全壊。石巻支局は、1階が水没した。気仙沼総局長は、ビルとなっている総局に避難してきた周辺の人たちへの食料を買いにコンビニに行ったとき津波に襲われたが、電信柱にしがみついて助かった。

 仙台市にある本社では新聞組み版のサーバーが倒れ、制作作業ができなくなった。このため、災害時に互いに助け合う協定を取り決めていた新潟日報に、共同通信のラインを利用して記事データを送り紙面の作成を依頼、その紙面を宮城県内の印刷工場に送り返してもらったうえで号外と朝刊を印刷し配達した。サーバーは翌日から復旧した。

 12日の朝刊社会面トップには、志津川支局の渡辺龍記者が携帯電話で吹き込んだ迫真の記事が載った。「防災庁舎の屋上には、避難したとみられう30人ほどの姿があった。津波が屋上をたたいた。しばらく立ちこめる水煙。数分後、屋上が見えた。そこにいたのはー0人ほどになっていた」。携帯電話がほとんどつながらない中、渡辺記者は電話が通じる場所を探しながらかけ続けた。11日午後7時すぎ、本社への通話が奇跡的につながり、デスクが原稿を聞き取った。次は撮影した津波の連続写真を届けないといけない。妻はたまたま仙台市内にいた。幼稚園児の長男と一緒に徒歩とヒッチハイクの末、仙台市の本社にたどり着いたのが12日午後6時すぎだった。

 パソコンで原稿を書いて送稿するのが当たり前の時代に、電気が止まり、ネットワークも切断された。頭の中で記事を作りながら電話で伝える「勧進帳」、手書きの原稿、10キロ以上歩いて手渡す写真データ。武田報道部長は「一人ひとりが局面を切り開いた結果、紙面ができる。泥臭い手法で混乱を乗り越えてきた」。携帯電話が自由に使えるまで2、3週間かかったという。

 編集面では、安否情報にもなるとして、個人名や固有名詞をできるだけ盛り込むようにした。読者から「連絡を取りたい」があったときには、本人につなぐことも再三だった。ライフライン情報は見開き15段で手厚く展開した。ただ、24時間あいているガソリンスタンドの情報を載せたときは、ガソリンが売り切れて営業が終了したため、1000台近い車が並ぶ事態になるという反省点もあった。

 読者からの注文もある。津波の被害が300~400キロに及ぶなか、三陸沿岸部に取材が集中したため、震災後3日目から「なぜ、うち(の地域)を報道してくれないのか」という苦情が寄せられ始めた。例えば、犠牲者が5000人規模の石巻市はよく伝えられるが、1000人前後が犠牲になった東松島市はあまり取り上げられない。仙台周辺でも、荒浜地区(仙台市若林区)、閖上地区(名取市)はよく紙面に登場するが、多賀城市は後回しになりがちだった。こうした偏りをできるだけなくすよう努めている。大量に取材者を投入した中央メディアに遅れを取った局面があったが、震災から1カ月を過ぎたころから他紙を上回る情報、深さを感じている、と武田部長は言う。

 在京メディアの原発関連の報道には違和感を抱いている。武田部長は「東京の浄水場汚染や計画停電には中央目線の報道の印象があり、 ・・・ログインして読む
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筆者

川本裕司

川本裕司(かわもと・ひろし) 朝日新聞社会部記者

朝日新聞社会部員。1959年生まれ。81年入社。学芸部、社会部などを経て、2006年から放送、通信、新聞などメディアを担当する編集委員。10年、論説委員兼務。17年4月から東京社会部。著書に『ニューメディア「誤算」の構造』。共著に『テレビジャーナリズムの現在』『被告席のメディア』『新聞をひらく』。

 

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