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これほどの無明を、見たことはなかった――宮沢賢治「雨ニモマケズ」(『AERA』2011年4月11日号)

外岡秀俊(ジャーナリスト)

 東日本大震災から1週間後の3月18日、朝日新聞社機で上空から被災地を見た。翌日から1週間、陸路で被災地を回った。東京からの走行距離約2300キロ。途方もない災厄に、戦慄した。

 上空から見るのは、鳥の目で俯瞰し、被災の全体像を知るためだった。福島第一原発西方50キロを北上し、仙台へ。浸水した仙台空港では格納庫から流れた飛行機やコンテナが散乱し、至るところに車が転がっている。平野が陥没したため、水が引かず、海と陸の区別がつかない。宮城県多賀城市、東松島市、石巻市。どこでも大きな船が陸地奥まで乗り上げ、白い横腹を見せる。橋は流され、橋脚しかない。流れた家屋が凄まじい水圧で押し上げられ、幾重にも積み上げられ、ひしゃげている。

 だが岩手県陸前高田市から、景色が一変した。何もない。孤立したコンクリートの建物以外、ただ泥土と水。何もない。

 血の気がひいた。

 北上山地が断崖となって海に落ちる三陸海岸は、津波の常襲地帯だ。すぐ先が深海であるため、遠地の地震が津波になって増幅する。ノコギリの歯のように屈曲したリアス式海岸の地形で津波の水位が急に高まり、河川沿いに陸深く押し寄せる。1896年の明治三陸大津波では死者・安否不明者約2万2千人。1933年の昭和三陸津波では同約3千人。かつて被害が大きかったのも、その特異な地形ゆえだ。

 だが大船渡市や釜石市の湾口には堅牢な津波防波堤がある。過去2度の津波で壊滅した宮古市の田老地区も、高さ10メートル、総延長2・4キロの二重の防潮堤で守られているはずだ。

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