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[1]復興には、ほど遠い

カミュ「ペスト」

外岡秀俊 ジャーナリスト

阪神大震災を1年以上取材し、3月まで朝日新聞編集委員だったジャーナリストの外岡秀俊氏が、東日本大震災の被災地を回っている。毎回、一つの文学作品や批評などを読み解きながら、被災地で考える新連載。

 

 3月で朝日新聞を退社し、郷里に戻った。

 東日本大震災から1週間後、8日間にわたって被災地を回り、最後のルポ原稿「これほどの無明を、見たことはなかった」(アエラ誌)を書いた。その締切が退社日だった。

 しばらくは札幌の郷里で、老いた両親とともに日々を過ごしたい、と考えていた。とある日、近くに住む姉から私の携帯電話に、こんな連絡があった。

 「今朝のテレビ、観た? ヘンミさんという石巻出身の作家が、震災について語っていたのよ。『ペスト』っていう小説に触れて、震災が起きた今のようなときこそ、誠実さが大事なんだって。感動したわ」

 興奮さめやらぬ様子の姉の言葉の断片を組み立ててみると、作家の辺見庸氏が、NHK教育テレビの早朝番組で震災について語り、アルベール・カミュの長編小説「ペスト」について触れた。そのなかで辺見氏は、登場人物のリウー医師が「ペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」と語る場面を引用したのだという。

 姉の言葉を聞いているうちに、無意識の層に埋め込まれたボタンが押され、心のうちの何かが起動した。被災地を見てしばらく、今起きていることが何かを自分で定義することができず、呆然と日々を過ごしてきた。その曇りガラスがかかったようなぼんやりした映像が、辺見氏の指摘するリウーの言葉をきっかけに解像度を高め、くっきりとした輪郭をとって浮かんでくる気がした。いまこの国で起きていることは「ペスト」の世界であり、そこでどう生きるかが、一人ひとりに問われているのだ、と。しかし、「誠実さ」とは何だろう。辺見氏は、その言葉にどんな思いを託そうとしたのだろう。

 その答えを見出せないまま、ともかくも被災地の現場に戻ろうと思った。辺見氏の特集番組を観る機会はなかったが、その問いかけに対し、自分なりの応答をしてみることが、「ペスト」の国で今を生きることの意味を探るきっかけになるのではないか。

 翌4月25日、北海道から南下し、東北に向かった。被災地に戻るのは、ちょうど1ヵ月後のことだ。

宮古で

 盛岡から宮古に向かう国道106号は、閉伊街道と呼ばれる。「がんばろう岩手」の貼紙や横断幕が目立つ盛岡駅から高速バスに乗り、築川の清流に沿って100キロの山道をひた走る。

 乗客は10人ほどで、通訳を連れた外国人ジャーナリストの姿も見える。途中、残雪が残る区界高原からは、早池峰の白い峰々が垣間みえた。だが峠を越えたあたりから、木々の枝先が新芽の薄緑を点し、寒々とした風景が華やいで見える。つい1ヵ月前、宮古には粉雪が舞い、海と陸の境を失って瓦礫の山が連なる長い海岸線は、厳しく冷たい冬景色に閉ざされていた。右側を流れる閉伊川の岸に咲きはじめた桜に、北国にもようやく訪れた春を感じ、復旧はどれほど進んだのだろうかと、淡い期待が浮かんできた。

 だが、期待は裏切られた。宮古駅前派出所で借りた自転車に乗り、市内を走ってみて、その変わりのなさに、愕然とした。道路こそ瓦礫は撤去されたが、防潮堤の内側には被災した車両が山積みになり、沿岸の工場は破壊されたまま放置され、ほとんど手つかずだ。

岩手県宮古=4月26日、筆者撮影
 道路には、押し流されたヨットが横倒しになり、藻や浮き球がみっしり絡みついている。よく見ると、津波に押し流されなかった道路脇の建物の外壁にも、軒並み赤ペンキで、「解体可」「解体OK」の文字が大書してある。瓦礫を撤去するどころか、まだ、被災建物の解体作業すら始まっていない。

 もともと宿泊先や、事前の取材予約はしていなかった。インターネットで探しても、東北地方の宿はほとんど「満室」が表示される。被災者や復旧作業の人々を優先するのだから、当然だろう。現地の情報を、遠隔地で探そうにも、発信の側にゆとりはなく、発信されていても、時間差が生じる。現場の情報は、現地で取るしかない。

 これまでの取材経験から、そうは予想していた。しかしこの非常時に、組織を離れ、フリーの立場になって飛び込んだとき、自分を受け入れてもらえるだろうか。一抹の不安を覚えながら宮古市役所に入ると、広報担当の企画課副主幹、藤田浩司さん(50)が、親切に対応してくださった。

 人口約6万人の宮古市では、25日現在で死者406人、行方不明534人。家屋全半壊は4675棟に上る。被害の多かった田老地区では当初、1000人近い行方不明者がいると恐れられたが、いまは100人くらいと見られている。これは、最初のうちは役所が浸水して住民台帳を取り出せず、大まかな人口から、避難所にいた方と、町外で確認された方を除いた数字をあげていたためだ。

 しかし少なくなったとはいえ、被害は甚大だ。今も市内21ヵ所の避難所に、2000人近い方が暮らしている。仮設住宅はすでに948ヵ所着工したが、まだまだ足りない。

 「津波ですべてを失った方が多い。仮設住宅や当面の生活資金など、一日も早い支援がほしい。それと、どこにどんな建築規制をかけ、どのように復興していくのか、将来像が見えない。田老では10メートルを超す防潮堤を、津波があっさり乗り越えた。次に津波が来るのは5年後か、100年先か。そのために何メートルの防潮堤を作ればいいのか」

 藤田さんも自問しながら、その答えを見出せずにいる。

 閉伊川沿いに絶つ宮古市役所は、津波で2階床まで浸水し、1階の非常電源が使えなくなった。職員と市民約300人が6階に避難して、暗闇の中で一晩を過ごした。私が訪ねたときも、1階はまだ使えず、市役所の銀行ATMが壊れたまま。周辺の住宅は大波にさわられて傾いだそのときの姿のまま、時間は停止している。

 市内には、北海道警、静岡県警などの応援パトカーが目立つ。宮古大橋を渡って磯鶏地区を行くと、坂の麓の海浜に建つ宮古署が見えてきた。ここも津波で1階に浸水したが、署では4階会議室に対策本部を設け、警察無線で県警本部と連絡をとった。

 110番は盛岡の県警本部で集中管理しており、そこから無線で宮古署に情報が送られた。119番は使えなくなったが、署では市役所、市消防本部に連絡要員を送り、警察無線を使って、救急搬送や消火要請を伝えたのだという。

 「職員は1人亡くなり、1人が行方不明。10人以上が官舎などの住まいを失いました」と、小野寺勝善副署長がおっしゃる。

 他県警の応援は数百人規模だ。ご遺体の捜索から交通整理、パトロール、避難所警戒など、応援の範囲は幅広い。約100人の署員ではとてもカバーしきれない広域の被災地で、ともかくも平穏を維持してこられたのも、警察庁という全国組織の動員力、機動力の支えがあったからだろう。

 倉庫には、数十個の金庫が並んでいた。その点について尋ねると、小野寺副署長は、「今は100個ほどに減りましたが、多い時には700個。津波にさらわれ、遺失物扱いになったのです。持ち主を確認して、順次お返ししています」という。

 警察の支援態勢は万全として、自治体はどうだろう。その足で宮古大橋を引き返し、坂の上にある避難所の愛宕小に向かった。

 1ヵ月前に訪ねた別の小学校では、避難所を管理する学校の幹部が、唇をわなわな震わせ、「これから会議をするんです。取材には応じられない」と顔をそむけた。「取材ではありません。新聞と食糧をお届けにあがりました」といっても、後ろを向き、両手を台に突っ張って、背中で拒絶の姿勢を見せた。周りの教員がとりなそうとしても、無駄だった。実際、私は取材をするつもりはなかった。自らや家族も被災しながら、公務員というだけで、住民のお世話に追われて不眠不休の活動を続けてきた人が、もう体力気力の限界に近づいていることは、すぐに見てとれた。

 避難所を管理する人々はどうしていらっしゃるのだろう。愛宕小を預かる市職員の舘崎正さん(47)にお目にかかった。「ここはコミュニティがしっかりしているので、楽です。札幌から自治労が応援に来てくださって、日中は3人、夜は2人態勢になりました。前は2泊連泊でしたが、今は1日交代になりました」。愛宕小に避難している方は110人。朝晩、別の避難所に常駐している自衛隊から炊き出しが届き、昼は生協から弁当が届く。缶詰など食糧は足りているが、必要な日用品があれば、昼に物資を届けにくる宅急便の業者に「避難所連絡票」で注文を出し、翌日の便で届ける仕組みができている。

 「今はモノではなく、現金収入をどうするか、住宅に入れるかどうかが、不安になっています」

 食糧と水はようやく供給が安定し、かろうじて「日常」は戻ってきた。明日もまた、今日と同じ日がくることは期待できる。しかし職と住という暮らしの根幹はまだ見通しが立たず、すぐ一歩先の足元は、闇に包まれている。それが1ヵ月後の姿だった。

気仙沼で

 28日から30日まで、宮城県気仙沼を訪ねた。石巻と並ぶ東北有数の漁港は、今も壊滅的な被害から立ち直っていない。内湾にある漁港を囲むように延びる市街地は、瓦礫の山が延々とつらなり、大きな漁船も岸壁に乗り上げたままだ。

 「気仙沼に入れば何でも手に入る」。他港の漁船仲間には、そんな合言葉があった。造船場、鉄工所、電装工場、無線の調整修理、物資や餌の仕込み、冷凍施設、水産加工。そうした関連施設はすべて、海沿いにあり、津波にさらわれた。今のところ、瓦礫撤去は道路確保が最優先。水道・電気復旧工事も、当然ながら、避難所が最優先だ。しかし、多くの住民の職を支えてきた水産業は後回しになり、水道電気のライフラインも手つかずだ。

 気仙沼は6月から始まるカツオ漁の漁船水揚げ再開に期待をかけている。

 「九州、四国の漁船はいつもなら気仙沼に水揚げする。昨年まで日に200トンの水揚げはあったが、今年はどうなるか」。市商工会議所の高越士郎・中小企業相談所長は、腕組みをし、遠くを見る目でいった。「それに、福島第一原発もある。海の汚染で、南の船が上がってきてくれるか、どうか」

 この1ヵ月、生きていくだけで精一杯だった。避難所であれ、衣食住は、仮住まいであっても何とか確保できた。しかし、ふと我に返ると、現金がない。職場もない。町の大黒柱であった水産業の根元がへし折られ、これからの生活の見通しが立たなくなった。このままでは、職を市外に求める人々が出て、町は崩壊しかねない。水産加工業者は、残った建物を共同作業所にして、再起しようという動きも出ている。しかし、どの場所に建築規制がかけられるのか、どこでなら商売できるのか、見通しがつかない。「一番はっきりしてほしいのは、都市計画だ。復旧には、どんなに短くても5~6年、長ければ10年はかかるのではないか」。高越氏はそういう。

宮城県気仙沼の佐藤義勝さん=4月28日、筆者撮影
 徒歩で漁港に向かう。岸壁に打ち上げられた「第十八明神丸」を、南三陸町に住む船主の佐藤義勝さん(68)と妻の愛子さんが、見回りに来たところだった。

 重油は抜いたが、海に戻すにはまず船底の損傷を確かめ、60トンのクレーン2台を使って持ち上げなければならない。どんなに急いでも、あと2週間はかかるだろう。震災の日、海でワカメ養殖をしている息子の清和さんは、昔から漁師に伝わる言い習わしに従い、作業船を沖に向かって走らせ、難を逃れた。

 命と船は無事だったが、ワカメは壊滅した。再び漁に出て現金収入の道が開けるまで、孫を含め一家8人がどうやって食べていくか。「いっそ死んだほうがよかった、って、みんなで泣いたのよ」。港を離れて歩き出した耳に、そうつぶやく愛子さんの言葉が、いつまでも残った。

石巻で

 5月1日、仙台市から高速バスで石巻に向かった。ほぼ満席の車内なのに、ほとんど会話が聞こえない。これは被災地どこもがそうなのだが、ほとんどの乗客は被災した人か、被災した家族の元に向かう人々なのだ。あの日に凍結して少しも変わらない光景が窓の外に広がる車内で、思いは言葉に届かず、中途で呑みこまれてしまう。

宮城県石巻=5月1日、筆者撮影
 石巻駅前からタクシーで、内海橋を渡って東部に向かう。1ヵ月前はここで瓦礫に道を塞がれ、前に進めなかった。

 しばらく走ると、左手の鹿妻地区の田んぼのあちこちに、車両が重なり合って小山となり、大地に突き刺さって動かない光景が広がっていた。誰が所有者かわからない。もう廃車になるのがわかっていても、取りに行く余裕がないか、捨て場がわからない。片づかない車の山には、それぞれの片づかない事情があるに違いない。

 知人を通してご紹介いただいた垂水町の医師久門俊勝さん(61)にお目にかかる。

 地震直後に病院は停電になり、固定・携帯電話が不通になった。4~5日は水が引かず、自転車で周囲に出ることもできなかった。

 情報は携帯ラジオだけが頼りで、周囲の被災状況はわからない。知人の車に同乗し、山を越えてようやく携帯電話がつながったのが1週間後。その日、久門医師は避難所に往診に出て、初めて地元紙を読み、石巻の被災の実態を知ったのだという。「内海橋から東側の病院で、再開したのは、うちと内科医だけ。まだ再開できない、あるいは廃業にするかもしれない、という開業医もある」。

 久門医師の車で沿岸部を案内していただいた。驚いたことに、道路が至るところで冠水している。住宅は周囲に土嚢を積み上げ、かろうじて浸水を防いでいる。「地盤が70センチほど沈降し、満潮時にはいつもこうなります」。車は、水が浅くて地盤の硬い場所をじぐざぐ探りあてながら進む。渡波地区の浜辺に出ると、辺り一面に、津波の水圧を受けてひしゃげた家屋、水にさらわれて別の土地に着地した民家が並んでいた。どこもそうだが、津波のあった土地は、不気味なほどに静まり返っている。人はもちろん、強風に煽られて紙風船のようにちぎれ飛ぶ海鳥以外に、生き物の気配もない。

 前方を見ると、決壊した防潮堤の向こうに、白い飛沫をあげて寄せる黒々とした海が見えた。まだ、海がその奥底で牙を研ぎ、暴風雨に乗じて襲いかかる日を待っているかのようだ。復旧・復興を語るには、まだ早い。緊急事態はまだ続いており、かろうじて生き延びた人々にとって緊急事態はいまだ、「今、そこにある危険」なのだ。

「ペスト」の国

 冒頭に、辺見庸さんが引用したカミュの「ペスト」について触れた。被災地を再び巡り歩き、東日本大震災から2ヵ月を経たいま、その長編小説を読み直して、改めて辺見さんの慧眼を思う。

 1947年に発表された「ペスト」は、40年代のある年、アルジェリアの要港オランを襲ったペスト禍の記録という体裁をとっている(引用は新潮文庫、宮崎嶺雄氏訳)。

 「四月十六日の朝、医師ベルナール・リウーは、診療室から出かけようとして、階段口のまんなかで一匹の死んだ鼠につまづいた」

 そうしたかすかな予兆で始まる物語は、簡潔に事実だけを連ねる年代記風の叙述で、増え続ける鼠の死骸や、リンパ腺の腫張で苦しみながら死ぬ患者の出現を淡々と描き出す。やがて同僚医師との会話で、リウーが「ペスト」という病名を口にする、その瞬間、序曲は終わり、物語は大きく動き出す。

 物語の軸となるのは、ペストと戦う主人公の医師リウーと、つい最近オランを訪ねて居残り、やがてリウーの盟友としてペストと戦う謎の男タルー。そして、たまたま取材に訪れたばかりに、外界から封鎖されたオランに囚われ、恋人を思って何度も市外脱出を試みる新聞記者ランベールだ。この3人に、司祭パヌルーや、ペストが襲ったために逮捕を免れ、むしろペストの永続を願う犯罪者のコタールという聖俗の軸が絡み、物語は、ペストという災厄を通して揺さぶられる群像を重層的に描き出していく。

 辺見さんが引用した箇所は、この物語の山場のひとつ、脱出に逸(はや)るランベールが、ペストと戦うリウーやタルーと会話を交わす場面だ。スペイン内戦を経て、「もう観念やヒロイズムは信用しない。自分は愛するもののために生き、かつ死ぬことだけを信じる」というランベールに向かってリウーはいう。

 「今度のことは、ヒロイズムなどという問題じゃないんです。これは誠実さの問題なんです。こんな考え方はあるいは笑われるかもしれませんが、しかしペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」

 急に真剣な顔つきになって「誠実さとは」と問う若者に、リウーはいう。

 「一般的にはどういうことか知りませんがね。しかし、僕の場合には、つまり自分の職務を果たすことだと心得ています」

 さあ、まだ仕事が残っている。そう杯をほしてリウーが立ち去ったあと、タルーはランベールに、ペスト禍が起きる直前、リウーの妻が療養のため数百キロも離れた山に向かい、電報以外に互いの連絡がつかなくなっていることを告げる。そのことを知って心を揺さぶられたランベールが、やがて重大な決断をすることになる重要な布石の場面だ。

 かつてこの小説を読んだとき、私は「ペスト」が一種の寓意小説、戦争という災厄を生きたカミュが、その設定をペストの極限状況下に置き換え、人間性の本質を正面から問うた作品だと理解した。

 間違いだった。辺見さんのご指摘に促されて、東日本大震災後の今、この小説を読み直すと、この作品が、数十年を経ていずれ鼠どもを呼びさまし、再び襲いかかるペスト菌のように、人の想像を絶する規模で繰り返し襲来するすべての災厄にあてはまる普遍的な物語であることを知った。それほどに、この小説の設定は、今のこの国の現状に当てはまるように思える。

災厄の構図

〔であるかのごとく〕

 たとえば、こうだ。ペスト禍拡大を恐れるリウーは県に保健委員会の招集を求める。ペストかどうか、断定はできない。しかし伝播の具合をみれば、2ヵ月以内に全市民の半数が死滅する危険がある。そう警告するリウーに、有力な医師がこういう。「何ごとも暗い方ばかり考える必要はないし、だいいち、患者の身内の人々がまだ無事である以上、伝染ということも証明されたわけではない」

 病を終息させるには、法で定める重大な予防措置を適用するしかない。そのためには、それがペストであることを公に確認する必要がある。だが、その確実性は十分ではない。だから慎重考慮を要する、という意見だ。

 それを引き取って知事がいう。「私としては、それがペストという流行病であることを、皆さんが公に認めてくださることが必要です」。リウーがいう。「われわれがそれを認めなかったとしても、それは依然として市民の半数を死滅させる危険をもっています」

 委員会は結局、「この病があたかもペストであるかのごとくふるまう」ことを決め、散会する。

               *               *

 災厄に対する行動には重大な責任が伴う。政治家は専門家に頼って判断を回避し、専門家は判断を躊躇う。詰まるところ、政治家は及び腰に、災厄「であるかのごとく」振る舞うことになる。

〔隔離、追放、永遠の足踏み〕

 ペストは拡大し、市門が閉鎖され、港湾は封鎖される。こうした遮断があって初めて、人々はペストの本質を知る。それは、ついさっき軽い気持ちで別れ、もういつ会えるかわからなくなった者との別離であり、いつ終わるとも知れない隔離への追放である。人々は妥協の余地のない状態に置かれる。「折れ合う」とか「特典」とか「例外」とかいう言葉はまったく意味がなくなる。これは、人々をもれなく閉じ込める流刑の地である。

 知事はさらに車の運行を制限し、食糧補給を限定し、ガソリンは割り当てにし、電気の節約まで指示した。贅沢品の店は閉じ、ほかの商店は断りの掲示を出し、一方その店頭には買い手の行列が並んだ。

 だが、災厄は劇的だったろうか。「こういういつも似かよっている夜々の長い連続の果てに来るものとして、リウーは際限なく繰り返される同じような場合の長い連続よりほかには、なんにも期待できなかった。まったく、ペストというやつは、抽象と同様、単調であった」。ペストは目にみえない。それは、いつやむとも知れない永遠の足踏み状態だ。

〔終わりなき未決状態〕

 タルーがある夕方帰宅すると、入り口ホールで夜警に出会った。彼はいつも、今度の出来事をあらかじめ予知していた、という。しかし、夜警が予知していたのは地震であってペストではない。そうタルーが指摘すると夜警がいう。「まったく、こいつが地震だったらね!がっと一揺れ来りゃ、もう話は済んじまう……死んだ者と生き残った者を勘定して、それで勝負はついちまうんでさ。ところが、この病気の畜生のやり口ときたら、そいつにかかってない者でも、胸のなかにそいつをかかえてるんだからね」

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 災厄にはさまざまな態様があり、いずれがよりマシか、という比較に意味はない。

 災厄はそれぞれに不幸であり、取り消しのきかない損失をもたらす。そうだとしても、ペストは、結末の見えない未決状態に人々を置くという点で、原発事故が複合して展開する今回と共通している。

〔隔離に生じる不平等〕

 ペストが広がると、オランでも特に被害がひどい区域を隔離し、医師ら必要な人しか出入りできない措置をとる必要が出てきた。

 「これまで、そこに住んでいた人々は、この措置を、特に自分たちだけを目当てにした一つの弱い者いじめみたいに見なす気持ちを押ええなかったし、いずれにしても、彼らは対照的にほかの地区の居住者たちのことを、まるで自由な人間のことでも考えるように考えていたのである。ほかの地区の居住者は、それに引きかえ、彼らの最も困難な瞬間にも、他の人々は自分たちよりもまたさらに自由を奪われているのだと考えることに、一つの慰めを見出していた。『それでもまだ俺以上に束縛されている者があるのだ』というのが、そのとき、可能な唯一の希望を端的に示す言葉であった」

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 同じく生き延びたことを祝福しあう共感のあとに、不平等の現実が露呈する。ある人はすべてを失い、ある人は若干のものが残った。ある人には頼れる知己がおり、ある人は身寄りもいない。こうした「現実」がいやおうなく浮かんでくる。それを、「差別や妬み」へと転化させるのか、「共生や助け合い」のきっかけにするのか、選択するのは、私たちだろう。

〔人間的な温かみ〕

 孤立して以来、毎晩、電波に乗って、あるいは新聞紙上で、同情的なあるいは賞賛的な注釈の言葉が、オランめがけて飛びかかってきた。そのたびごとに、叙事詩風の、あるいは受賞演説調の調子がリウーをいらいらさせた。隔離された人々は批評の感覚を失い、最も聡明な人でさえ、新聞紙上やラジオ放送のなかに、ペストの急速な終息を信ずる理由を探すような素振りを見せたり、あるいはどこかの新聞記者が退屈さにあくびをしながら、多少出まかせに書きとばした考察を読んで、根拠のない恐れを感じたりした。

 ペストがようやく終息に向かったとき、リウーはこう思う。「確かに、ペストは恐怖と同じくして終ったのであり、そしてこれらの(恋人たちの)からみ合った腕は、実際、ペストが、その語の深い意味において、追放と別離とであったことを物語っていた」「ペストが市の門を閉鎖した瞬間から、彼らはもう別離のなかだけで生き、すべてを忘れさせてくれる人間的な温かみをもぎ取られてしまっていたのである」

               *               *

 外部からの「同情」や、かたちだけの「賞賛」の言葉は、隔離された人々の心に響かない。追放と別離のなかで、人間的な温かみをもぎとられた人々の孤立感の深みに、それは到達しないからだ。多くの人がこの震災で「言葉を失い」、「言葉の無力」をかみ締めるのは、「誠実さ」のあかしだろう。しかし、私たちがつながりあい、ささえあう最後の綱が言葉であることに、私たちはかすかな希望を繋留することしかできない。

今できること

 辺見さんの指摘に促されて「ペスト」を再読し、「ペストと戦う唯一の方法は誠実さだ」というリウーの言葉の意味を考えた。

 災厄のさなかに、人ができることは限られている。そこにあって、ヒロイズムやイデオロギーは無力であり、無益だ。いたずらに期待せず、絶望もせず、今起きていることに淡々と対処し、疲労のうちにまどろむ。そうして「永遠の足踏み」に耐え、単調さを克服する唯一の足場は、この災厄でさえ抹殺できない「希望」を支えに自分の職務をこなす、という「誠実さ」でしかない。

 私が考えたリウーの言葉の意味は、ざっとそんなことだった。「ペスト」が明らかにするように、災厄は外部から遮断されるという「孤立」にその本質があると思う。現実に、被災地は交通、通信、情報、物流が回復するまで、多かれ少なかれ、「隔離」の状態に置かれる。そこで人々は、家族や親しい人、友人たちと引き裂かれ、別離を強いられる。

 しかし、より大きな断絶は、そうした「孤立」に対する、外部の人々の想像力の足りなさや、誤解、無関心にある。災厄のもとにある人々を、さらなる孤立へと追いやることだけは、避けなくてはならないだろう。

 アエラ誌臨時増刊「原発と日本人 100人の証言」のなかで、南相馬市で被災した方の、こんな言葉を読んだ。「焦って何かしてくれなくていいから、被災者を忘れないでほしい。いま100万円を送ってくれるなら、1万円を100ヵ月続けて送ってほしい」。この切実な言葉にこたえる持続力が、私たちに問われているのだと思う。

 今回の場合、こうした災厄は、東北地方だけでなく、被災した茨城や千葉、さらには放射能物質の汚染に神経を尖らす首都圏、さらにはこの国全体にまで、同心円状に広がっている。そのそれぞれの円に濃淡の違う「孤立」があり、「格差」があるといってもいいだろう。だが、その「格差」から、「自分はまだマシだ」という虚妄の「希望」を引き出すのではなく、「より孤立した地域へ支援をリレーする」という共生の循環をつくりだせるかどうかに、この国の「回復」は懸かっているはずだ。

仙台市・若林区=5月2日、筆者撮影
 被災地を歩いて、今できること、すべきことを考える。それは、いまだ復興ではなく、依然として、ぎりぎりの状態に置かれている被災地の暮らしと命を、どう支えるかに知恵を絞ることではないだろうか。

 5月14日付の朝日新聞朝刊は、震災による堤防や護岸の損壊が、岩手、宮城、福島の3県だけで、約1800ヵ所にのぼり、いまだに修復がなされていないという。梅雨や台風で、洪水の危険にさらされることは、なんとしても避けなくてはならない。

 全国に散り散りになった被災家族の実態把握と行政情報の提供。危険物を含む膨大な瓦礫の撤去。避難所だけでなく、漁港など基幹産業周辺のライフラインの復旧と、再整備。スタート地点に立つ前に、やらなければいけないことは山積している。

 復旧にあたっては、「町村のインフラ再建」という施設本位の再整備よりも、「人の暮らし再建」という人間本位の視点が大切だ。

広域にわたって自治体が被災し、本来の機能をまだ回復していないのだから、中央省庁は「自治体要請」を前提に待機するのではなく、積極的に現地に入り、要望や要請を汲み取る姿勢が大切だろう。

 なによりも、菅直人政権の覚悟が問われる。復興構想会議に将来計画を丸投げするのではなく、たとえば仙台で、被災した全県知事と、被災市町村の首長が集まる「復旧・復興サミット」を開き、その言葉にじっくり耳を傾けるなど、現場感覚を磨いて復旧の青写真を描いてほしい。

<5月17日(火)記>

外岡秀俊「これほどの無明を、見たことはなかった――宮沢賢治『雨ニモマケズ』」(『AERA』2011年4月11日号)