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「女性ならでは」を誰かが欲する限り……

倉沢鉄也 日鉄総研研究主幹

女性の社会進出を、男女完全自由競争以外の力学を加えるべきか否かは、時代によって論点も変わり、それ自体が学術的に濃密に論じられているので、素人の筆者が余計な議論を挙げればたちまち「炎上」してしまうのだろう。一般社会の中でかなり議論にこなれているであろう立場になる筆者すら、この領域を論じるにあたり、そうした言葉狩りあるいは宗教論争のような萎縮感を催さざるをえない。また、これまで見聞きしたこの領域の議論は、声高な論者が何をもってこの課題のゴール(解決状態)とするのかが理解しがたいことが多かった。平たく言うと、この領域の議論をする方は、いつも何かに向かって怒っているように感じられ、そしてそれ以外の人(とくに男性)が萎縮して黙り込んでしまうことが、この領域の諸課題がいつまでも解決されないことの最大の問題点であるように思える。

 その上で、本題に戻って、キャリア形成の途上で女性の優先枠が認められるべきかどうかについて筆者が論じられることは、男女について一切の条件がないはずの「東京大学入学~卒業」を経た女性たちが、社会進出において十分な選択肢を与えられた状態から何を選んだのかについて、何百例かのファクトと、何十人かの生の声、プラス筆者の個人的認識、に基づくしかない。

 その狭い前提でのみ考えると、女性優先の補正を欲する女性は、残念ながら自由競争状態では客観的に見て劣位になることが、自他共にわかってしまっている人であることがほとんどだった。共産主義国家の失敗の歴史に学ぶまでもなく、結果の平等は、持ち上げられた当事者にも社会全体にもよい影響は決してもたらさない。九大の数学科に優先して入れても、学術のキャリア、就職および昇進のキャリアにおいて苦しむだけだ。一般論として、日本社会に必要なのは機会の平等が保障されているかどうかであろう。

 機会の平等が与えられていない場もいまだ日本社会にたくさんあろうが、例えば筆者の現在の職場において男女の研究員の労働条件には何も違いはなく、結果として女性社員の抱える家庭環境の制約とくに夫と子どもが欲する妻・母へのニーズにおいて、男性社員よりも制約を受けざるを得ないという実態しかないように思われる。自身の誇る有能な労働に対して、自分の子どもが母を欲するニーズは制約を受けるべきだ、という女性の物言いも複数聞いたことがあるが、それは筆者の認識で言えば、親と自分と子の関係において、死ぬまでに「世代の貸し借りの帳尻をあわせることができたか」でしかないように思える。

 私の知る東大卒の女性たちは、自らの社会進出度合い(具体的には労働時間量)について、

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