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[2]「放射能に、色がついていたらなあ」

カフカ「城」

外岡秀俊 ジャーナリスト

 5月の中下旬、福島県に入った。これまで見た岩手や宮城などの被災地とは、明らかに違う雰囲気を肌で感じた。

 どんなに被害が大きくとも、災厄には発生時にピークがあり、その後は、なだらかな鎮魂と慰謝、永訣と再起の時期が訪れる。

 しかし、福島では、災厄の発生時から、その後も衰えることのない怖れが持続し、人々はいまも、見えない敵に暮らしを包囲されているかのようだ。

 いうまでもなく、怖れの根源にあるのは、その後も解決の先行きが見えない福島第一原発である。だが、その怖れの正体を見えにくくし、暮らしに混乱をもたらしているものは、事故そのものに加え、政府の対応にある。そう感じないわけにはいかなかった。

南相馬市の中心部は一見、何の被害もなかったかに見える=筆者撮影
 福島を訪ねているあいだ、ずっと気になったことがある。一見、人々は穏やかに、災厄前の暮らしを取り戻し、なんとか日常性を保とうとしているかにみえる。

 だが、その日常のいたるところに、綻びがあり、亀裂から非日常が顔をのぞかせる。

 何度となく、「これは、どこかでみたことのある光景だ」という既視感を覚えた。今回の旅の終わりに、ようやくその既視感のありどころに気づいた。それは、これまで何度か読み、そのつど、不安定な読後感を残したカフカの長編小説「城」の世界だった。

 個人や社会の根元を、大きく揺さぶる今回のような災厄は、本を読むという行為ひとつをとっても、抜き差しならない、後戻りのできない影響を与えるのだろう。私は「城」を読み返して、福島で起きている日常と非日常の混淆を、自分なりに理解しようとした。

 裏を返していうと、それは、カフカの「城」を、まったく違った視点から読み直すことでもあった。福島原発事故がなければ、この小説を読み返すこともなかったろう。

 私たちがもう、上空からの映像や、遠く離れた超望遠レンズを通してしか見られない福島第一原発こそが、私たちにとっての「城」であり、「非日常」という現実をもたらす正体なのだ。そう考えた理由を、おいおい語っていきたいと思う。

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