ハーバート・ノーマン「忘れられた思想家――安藤昌益のこと」
2011年08月05日
「被災者に人一倍寄り添っているつもりだったが、言葉が足りなかったり荒かったりして被災者の心を痛めたことを本当におわび申し上げたい」
なぜ被災者の心を痛めたのか、この人は本当に分かっているのだろうか。会見でうなだれる前大臣の姿をテレビで見ながら、そう疑問に思った。3日の被災地での放言の内容は以下のようなものだ。
〇岩手県の達増拓也知事に
「九州の人間だから、東北の何市がどこの県とかわからんのだ」
「知恵を出したところは助けますけど、知恵を出さないやつは助けない」
〇宮城県の村井嘉浩知事に
「(漁港の集約は)県でコンセンサス取れよ。そうしないと、我々は何もしないぞ」
会談の場に遅れて入室した村井知事に
「お客さんが来るときは自分が入ってからお客さんを呼べ。いいか。長幼の序がわかっている(村井氏出身の)自衛隊なら、そんなことやるぞ。わかった? しっかりやれよ」
〇村井知事との会談を取材する報道陣に
「今の最後の言葉はオフレコです。いいですか、みなさん。書いたら、その社は終わりだから」
4日になって、「村井知事は、発言に問題があったとみているが」と記者団に問われた松本氏は、「知事が? ほんとに? うわー、すごい知事だな」と語ったという。
被災地で反発が広がったため、松本氏はその後陳謝の姿勢に転じた。ところがその内容は、「私は九州の人間ですけん、ちょっと語気が荒かった」とか、「私はB型で短絡的なところがあって本意が伝わらないという部分がある」などと、九州やB型の人間が聞けば神経を逆撫でされそうな言葉に終始した。
中央の権力を笠に着て、被災地の首長を見下し、威嚇する。果てはマスコミを恫喝する。こうした人物が、復興基本法でできた重要ポストに就いたこと自体が驚きだった。
だが数ある放言のなかで、私がもっとも気になったのは、「九州の人間だから、東北の何市がどこの県とかわからんのだ」という発言だった。これには訳がある。
学生のころ、新聞研究所の講座で、仙台市に拠点を置く「河北新報」の社長に、話をうかがったことがある。社長は、東北ブロック紙の現状について語る前に、新聞の紙名の由来を説明した。
「東北には、『白河以北一山百文』という言い伝えがあります。戊辰戦争で敗れてのち、薩長は東北を蔑み、福島県の白河の関から北には、何の価値もないといった。意地でもその逆境を撥ね返してやる、とつけたのが、『河北新報』の名前です」
この「白河以北一山百文」の出典は定かではない。東北をめぐる近代の言説をつぶさにたどった河西英通氏の『東北』『続・東北』(いずれも中公新書)によれば、1878年8月23日の「近時評論」誌の記事が、最初の記述だろうという。
一般には、戊辰戦争の際に官軍の将校が発した言葉という説が流布している。しかし河西氏は文献考証から、この言葉は「一山」と号した岩手出身の原敬が、1918年に首相に就任した前後、それまで「賊軍」「朝敵」とされてきた東北の名誉回復の機運が高まって、「官軍スローガン」説がつくられた、と推測している。
いずれにせよ、東北では、「白河以北」という言葉は、西南日本による
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