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宮崎駿が峻別するいい戦後と悪い戦後

宇野常寛

宇野常寛 宇野常寛(批評家)

 アニメ映画『コクリコ坂から』で脚本を担当した宮崎駿は、原作である同名の少女漫画に対して大胆な脚色を施している。そもそも80年代初頭に発表されたこの原作漫画は、おそらくはいわゆる「全共闘崩れ」であるであろう(もしくは近いメンタリティをもっていたであろう)原作者によって、70年代のアングラ・カルチャーの「臭い」が随所に漂う作品に仕上がっていた。政治的にではなく文化的に「逸脱」する、優等生であり不良でもある高校生たちが繰り広げる青春模様、それが原作漫画版『コクリコ坂から』だ。そのどこかシニカルに構えた主人公たちが遭遇する「少女漫画的な」メロドラマへの没入はどこか刹那的で、世代的「シラケ」の反動として他愛もないものに耽溺してみせるのだという態度すらうかがえる。

 しかし、宮崎駿はアニメ化にあたり、こうした原作者の創作態度とそれに伴う「70年代の臭い」を一掃した。舞台を60年代前半に移動し、高度成長のただ中に設定した。まるであの頃は誰もが「上を向いて歩こう」と思えていたといわんばかりに坂本九のヒットナンバーをイメージソングに指定し、まっすぐな高校生たちの気持ちのいい青春群像に物語を改編した。彼らは健康に団結し、闘い、そして恋をする。生まれ変わった主人公たちに、ポスト全共闘的なシニカルさは微塵もない。

 私見ではこの「70年代から60年代へ」の舞台設定の変更にこそ、本作における宮崎駿のメッセージ性がもっとも現れている。そしてそんな宮崎駿の態度を体現するものが、劇中に登場する建築物「カルチェラタン」だ。これは主人公たちの通う私立高校に存在する旧校舎で、今はいわゆる「部室長屋」として用いられている。学校側はこのカルチェラタンを取り壊して、新しい部室棟を建てようとしているが。一部の学生たちはこの古い建物とともにある学園の伝統を守ろうと取り壊しに反対している。物語はヒロインとその相手役が反対運動を背景に関係を深めていく過程を描いている。その中でヒロインがこのカルチェラタンを「お掃除」して、ペンキを塗り直し、リニューアルしようと提案する。そうすることで、カルチェラタンという建物自体の魅力を生徒たちにアピールし、反対運動への支持を拡大することができるのではないか、と。

 既に「用済み」と思われていた「古いもの」をリニューアルすることで「見直す」こと――それはまさしくこの映画における宮崎駿の創作態度そのもだと言っていい。60年代の「誰もが上を向いて歩」けていた時代を、アニメという虚構性の高い表現で作り直し、再提示する――宮崎駿もまた、この映画で60年代=カルチェラタンを「再提示」したのだ。暖かい「ご近所コミュニティ」が機能し、「戦争の傷跡」が残るがゆえに生き延びた人々が半ば義務のように「上を向いて」大切に生きていた時代――この宮崎駿の60年代観が「正確」かどうかはわからないが、映画に込められたメッセージは極めて明確だ。

 さて、ここでこの映画を考える上でのいい補助線になるのは、宮崎駿のここ数か月の「政治的」発言の数々だろう。インターネットで菅直人支持を表明し、スタジオジブリの社屋から反原発のスローガンを綴った垂れ幕を降ろす――。宮崎駿の「脱原発」の姿勢は一貫していいるが、それだけに事態は複雑だ。宮崎駿は片方では「戦後的なもの」を残せと訴え、片方では「戦後的なもの」を捨てろと主張しているのだ。日本における原子力発電所は、戦後の、冷戦後の核戦略を含めた外交戦略の産物だったことは広く知られている。そしてある時期以降はいわゆる「経世会」的な地方への利益誘導政治を支える装置の一つとしての側面が強くなったものだ。宮崎駿が言う誰もが「上を向いて歩けた」時代を ・・・ログインして読む
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筆者

宇野常寛

宇野常寛(うの・つねひろ) 宇野常寛(批評家)

批評家。1978年生。批評誌〈PLANETS〉編集長。文学、サブカルチャー、コミュニケーション論など幅広く評論活動を行う。著書に『ゼロ年代の想像力』。共著に更科修一郎との時評対談集『サブカルチャー最終審判 批評のジェノサイス』。近著に『母性のディストピア(仮)』など。

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