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学習しない日本人、ハンセン病隔離と同じ迂回の暴力

武田徹

武田徹 評論家

「この道はいつか来た道」と思わざるを得ない――。

 放射線被曝に詳しいと自称する学者が「東北の野菜や牛肉を食べたら健康を壊す」とテレビで発言、物議をかもす。福岡市内で開店予定だった「ふくしま応援ショップ」に「地域の汚染が広がる」と書かれたメールや非難の電話が殺到し、出店取りやめに追い込まれる。やや旧聞に属するが、8月には京都・五山の送り火で、陸前高田市の松の木を燃やそうとしたが、二転三転した末に見送りになったこともあった。ツイッターなどでは徐染後の残土や放射性を帯びた瓦礫の受け入れを断固拒否しろという書き込みが、それこそうんざりするほど溢れている。

 それこそ震災直後は「被災地との絆」が謳われていたが、放射能汚染の問題が表面化してからは一転して被災地の内外で大きな温度差が生じてしまっている。そんな光景を目の当たりにして既視感を感じた。

●リスクゼロを求めて隔離を強いた歴史

 かつてハンセン病隔離医療の歴史を調べて『隔離という病』と題した書籍にまとめた経験がある筆者としては、日本人とは悲しいほどに学習しないのだとの印象が強い。

 ハンセン病の隔離が始まったのは1907年。「らい予防に関する件」と題された法律第11号が交付され、家族や村落共同体から放逐されて都市を放浪するハンセン病者の隔離収容に法的根拠が与えられた。明治政府はハンセン病対策をしていないことが欧米列強に知られ、二流国と見下されるのを避けたかった。ハンセン病撲滅に医師生命を賭けていた公衆衛生医・光田健輔にしてみれば隔離こそが最も確実な対策であり、それは患者を人目から隠したい政府の思惑と一致した。

 実際にはハンセン病は感染も発病もしにくい病気で、特効薬がなかったこの時期においても隔離は不要だったと言われる。確かに文明開花によって衛生状況、食糧事情が徐々に改善してゆくと、隔離制度が取られる前から新規患者発生数は減少していた。ましてや特効薬が作られてからもなお隔離制度を維持したのは大きな間違いだったとされ、らい予防法の廃止後、元患者に対する人権侵害が認定されて国家賠償にも繋がった。

 しかし隔離政策を進めたのは国と専門医だけではない。大衆社会もそうした隔離政策を支持した。病気をうつされることへの恐怖心が理由だった。隔離政策の結果、ハンセン病患者たちに困苦を強いたのは日本人の全てだった。そうして共犯者にならないためには、殆どゼロに近い感染リスクをいたずらに恐れることなく許容すべきだった。特に戦後は特効薬も登場し、風邪よりも直しやすい病気と評価する医者の声すら聞いたこともある。万が一、発病しても対応できるのだから、感染リスクを薄く社会全体が引き受けていれば、ハンセン病者との共生ができていたはずだ。そうしないでゼロリスクを求めた国民が、自らを絶対安全な場所に置いた代わりに、強制隔離され、療養所の中で過酷な生活を強いられて息絶えることすらあった重いリスクをハンセン病者に負わせてしまった。こうしたリスクの不均衡な分配こそ、ハンセン病隔離医療の歪みだったのだ。

●「万が一」を受け容れる手段の議論を

 放射線を忌避する行動もそれと全く同じだ。もちろん微量の放射線でも浴びない方がいい。予防原則的に言えば確かにそうなのだが、

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