メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

バランス感覚と新しい秩序

河合幹雄

河合幹雄 桐蔭横浜大学法学部教授(法社会学)

陸山会事件、小沢一郎の元秘書三人に有罪判決が下った。これは、全く予想通りだった。検察に注目が集まるが、判決は裁判所が下す。裁判所こそが、鼎の軽重を問われているとして見なければならない。

 かつて田中角栄が起訴され、一審有罪判決が出されたが、その後、裁判所は、最高裁で確定判決をだすことをグズグズ作戦で避けた。やっきになる検察と、「慎重」な判事という構図だった。いつか田中の後継者を仕留めるというのが検察の悲願である、と組織目標を勘違いしてきたあげくが、今回の起訴という見方がある。これをまず検討しよう。

 明治維新以来、日本の政治手法に杓子定規に法適用すれば、政治家は皆検挙しなければならなかった。日本社会をすっかり洋物に変えられないとすれば、西洋式の法制度と日本の伝統は共存させるしかなかった。そのために、悪いワイロと、見逃すべき金の動きを見分ける役割を検察が負ってきたと私は考える。日本のためになる政治家は見逃すということである。実質判断として、短刀直入に言えば、小沢一郎を見逃すべきかツブスべきか、それが問題なのである。

 政治情勢を見渡せば、自民党長期政権が終わったところである。普通に考えて、下野した自民党の政治家の汚職事件を追及するチャンスである。ところが、検察が取ったのは、政権交代の大功労者の小沢ツブシであった。これは、おかしいと批判が出るのも無理はない。国策捜査どころか、国策(国の利益)を考えないで、検察の組織目標にこだわった、国策なき捜査という印象をもった。

 これに対し、裁判所は、元々、政治と関わりたくない。田中のときでも逡巡したのに、今回進んで、小沢一郎が日本にとって必要かどうか、はっきり判断することは避けるであろうと、私は予測した。つまり、秘書は有罪、秘書の証言は証拠として無効で、小沢本人は無罪というバランス感覚である。悪く言えば

・・・ログインして読む
(残り:約307文字/本文:約1085文字)