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被災現場にとどまった思い、無駄にするな

辰濃哲郎

辰濃哲郎 ノンフィクション作家

東日本大震災直後に現場に入り、通算して2カ月も滞在しながら、被災地の医療はどうあるべきか。あるいは、今後どうすべきなのか。明確な解答を導き出せないでいる。

 主に医療関係の取材に時間を費やしてきたが、印象に残っている場面に福島県南相馬市の大町病院がある。

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 「いま逃げたら、先に逃げた人たちと五十歩百歩よ!」

 看護部長の藤原珠世さん(52)は、そう言って避難を直訴する看護師を叱咤した。

 震災直後、約25キロ離れた東京電力福島第一原発の模様が、ナースステーションのテレビに映し出されていた。爆発して白煙を上げ、残った骨組みを遠景で捉えた映像が不気味だ。原発正門付近の放射線量が3000マイクロシーベルトを超えたと伝えている。政府が指定する避難区域も、どんどん拡大していく。住民が一斉に避難を始める。浮足立つのも無理はない。子供を持つ看護師もいれば、これから結婚を控えている看護師だっている。

 「どうすればいいの!」「子供が産めなくなっちゃう!」。ナースステーションで泣きながら仕事をする看護師たちの悲痛な声を、藤原看護部長は聞いていた。だが、一方では120人ほどの入院患者がいる。転院先が決まらないから、逃げるわけにはいかない。

 約90人いた看護師の多くが避難を決意して病院を離れ、最後は17人にまで減った。残った看護師たちは日勤、夜勤、24時間連続で何日も勤務に就いた。

 「これ以上、減ったら病院はもたない。私が憎まれ役に徹するしかない」。藤原看護部長は、心を鬼にすることを決意した。ときには「いま逃げたら、先に逃げた人たちと五十歩百歩よ!」と怒鳴り上げ、ときには泣きながら留まるよう説得した。自分だって怖くないわけではない。看護師たちを縛り付けておくことが、いいことなのかどうかもわからない。子供を連れて避難した看護師を「逃げた」と表現することに躊躇もあった。母親にとって子供を守るのは何より尊いことを知っていた。だが、目の前の患者を放っておくわけにはいかなかった。

 震災から1週間後の18日、入院患者全員の転院先が決まり、3日間かけて転送した。広範囲にわたる被災で支援が行き届かない医療現場を守ったのは、自ら被災者でもある医療従事者たちだった。(拙著・『「脇役」たちがつないだ震災医療』に詳細)

 気仙沼市立本吉病院も同じだ。病院が津波で孤立するなか、十数人の看護師や事務方が病院を守った。南三陸町の公立志津川病院も、応援に駆け付けようとした看護師1人を含めて4人の看護師が命を落とした。

 大町病院は4月4日、外来に限って再開した。当初は入院患者を受け入れられなかったから、収入が大幅に減ることになる。本吉病院も新しい医師を招いて診療を続けている。公立志津川病院も、院長を初め病院幹部の熱意で別の場所に移してプレハブの診療所として再開にこぎつけた。地域の基幹病院としての機能を維持することが最大の使命だった。

 だが一方では、

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