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「緊急時避難準備区域」が解除された川内村で起きていること

鐸木能光(たくき よしみつ)=作家・作曲家

■「避難準備区域」解除で変わったことは何もない

 3.11以降、このWEBRONZAに数回、福島第一原発30km圏にある川内村に暮らしている一人として、情報や意見を書いてきました。

 振り返ってみると、最後が5月10日に書いたものなので、だいぶ時間があきました。村の自宅にて『裸のフクシマ』(講談社)という、3.11以降の福島についての本を執筆していて、先日、脱稿したところです。そんなこともあって、WEBRONZAにはご無沙汰しておりましたので、最初に少し基本的な説明をしておきます。

 僕は2004年10月の中越地震で新潟県川口町(現在は長岡市に合併)にあった家を失った直後に、移転先として福島県の川内村の中古住宅を見つけ、そこに移り住んできました。当初は川崎市の事務所(木造長屋の一角)との二地域居住でしたが、川内村に高速通信網(NTTのフレッツ光)が敷かれてからは、1年のうち通算11か月くらいは川内村の家で過ごしていました。今年3月12日、福島第一原発1号機が水素爆発する映像がテレビに映し出されるまでは。

 爆発シーンを見た直後に、取るものもとりあえずに妻と二人で村を出て、翌日の夕方、川崎の事務所に到着。その後は、3月26日に一度日帰りで戻ってパソコンや貴重品を回収。4月終わりにまた戻り、行ったり来たりを繰り返しながらも、6月くらいからは村で元通りの生活を始めています。

 川内村は半径20km圏の警戒区域(立ち入ると罰せられる)と、30km圏の「緊急時避難準備区域」(滞在、生活をしてもいいが、事態急変時にすぐに逃げられるように「準備」しておくべき区域。学校や病院は再開させない)に二分されていましたが、9月30日をもってこの「緊急時避難準備区域」指定は解除されました。 

 で、外の人からはよく「緊急時避難準備区域」が解除されたので、村の人たちは次々に戻ってきたのか、店や病院、学校などは再開したのか、生活はしやすくなったのか、と訊かれますが、実際には何も変わっていません。

 村に戻って、あるいは最初から残っていた人たちは、「緊急時避難準備区域」の指定とは関係なく、自分の意志で暮らしています。そもそも避難所があった郡山市は、川内村の中心部よりも空間放射線量が高いのですから、家に帰らずに避難所に留まっているほうがより多く被曝します。

 村唯一の小学校(川内小学校)には僕も何度も足を運んで線量を計ってみましたが、どう考えても避難先で間借りしている郡山市のK小学校より低い値です。子供たちもまた、わざわざ線量の高い場所にある小学校に通わされていることになります。こういうおかしな状況は、川内村だけでなく30km圏ではあちこちで起こっています。

 7月27日に衆議院厚労委員会に参考人として招致された児玉龍彦・東京大学アイソトープ総合センター長も、「南相馬の中心地区は海側で、学校の7割で比較的線量が低いです。ところが30km地点の飯館村に近い方の学校にスクールバスで毎日100万円かけて子どもが強制的に移動させられています。このような事態は一刻も早くやめさせてください!」と訴えていました。この参考人証言の様子はYouTubeなどでずいぶん話題になっていましたので、ご覧になったかたもいらっしゃるかと思います。

 これらはほんの一部で、バカげたことは他にも山のように行われています。

 30km圏の住民はみなこうした状況を知っています。分かった上で、バカらしいから戻ろうと思った人はとっくに戻ってきています。

 戻らなかった人たちは、「今戻ると補償金が減らされるし、どうせ仕事もできないのだから避難所にいたほうが生活費がかからないので楽だ」という理由で戻らなかったわけですから、指定が解除されたからといって何も状況が変わるわけではないのです。 

 現在、村に戻って生活している人たちは約200人と言われていて、これは5月頃の数字と変わっていません。しかし、実際にはもっといます。

 統計上、あるいは表向きには避難所や仮設住宅、借り上げ住宅(みなし仮設といって、県が月9万円までの家賃を補助して、仮設住宅と同じとみなす制度)に「避難」していることになっている人たちの中には、基本的には村の自宅に戻ってきていて、週末だけ仮設住宅や借り上げ住宅に「通っている」ケースがずいぶんあります。

 避難していることにしないと補償金が減らされるらしいから仮設住宅には申し込んで入居していることにしてあるが、実際には家に戻っている。でも、仮設住宅をあまりにも空けておくと怒られるから「たまには別荘に行って気分転換しよう」という形です。このスタイルは一部の村民の間ではすっかり定着していて、もはや誰も不思議には思わなくなりました。

 村内に残っている人に、仮設住宅やみなし仮設にいる人たちが「なんで村に残っているの? 避難していることにしておかないと損するよ」と言っている光景も目にしました。

 店は、ガソリンスタンドと旅館が開いていますが、これはとっくに再開していたので、特に変わりはありません。そもそも村役場がまだ戻ってきておらず、郡山で業務を続けています。毎日数人の職員が郡山から役場に「通ってきて」くるようにはなりましたが、村民が役場を訪れても、住民票の発行さえその場では受けられません。

 早い時期に自力で再開していたコンビニ「モンペリ」は、社長が病気で入院してしまい、閉まってしまいました。もともとこの村にはスーパーや大型店はないので、村民はみな、富岡町や小野町のヨークベニマル、大熊町のプラント4といった大型店に買い物に行っていましたが、富岡町、大熊町など、浜側は20km圏で立ち入り禁止のままですから、今は小野町や船引あたりに買い出しに行っています。20~30km離れていますが、これは3.11以前からそうだったので、特に不便になったということではありません。

 ときどきニュース映像などで、村にある商店が閉まっている映像を流して「戻ってきても買い物もできない」などと報じていますが、映し出されているその商店には、「平時」でも商品はほとんど並んでいませんでしたから(田舎の雑貨屋さんを想像してください)、そこが閉まっているからどうのということはありません。

 田舎の生活というのは、そもそもそういうものなのです。

 うちの場合、いちばん困っているのは、

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