ジョン・スタインベック「怒りの葡萄」
2011年11月11日
福島第一、第二原発がある双葉郡のほとんどの町村役場は、現在も役場ごと、県内外に移転している。いずれも支所や出張所の名前をとっているが、いつ元に戻れるかは見通しが立っていない。
原発立地町でいえば、双葉町は埼玉県加須市の元高校に役場を移し、10月末には福島市にも支所を開いた。大熊町は会津若松市に出張事務所、いわき市に連絡事務所を置き、富岡町は郡山市の旧避難所ビッグパレットふくしまに拠点を置いた。近くいわき市にも出張所を開く。楢葉町は会津美里町に役場を置いてきたが、こちらも近く、いわき市に出張所を開く。
それ以外でも、広野町はいわき市常磐の湯本に支所を置き、計画的避難区域に指定されて全村避難をした飯舘村は、福島市飯野町に役場を移した。また放射線汚染が深刻な浪江町も、二本松市に役場を移し、11月にはいわき市に出張所を開いた。
いわき市に役場の出張所が多いのは、もともと双葉郡の生活圏が、いわき市に近かったことと、北にある南相馬市への道路が原発事故で封鎖され、郡山、福島へと大迂回を強いられるためだ。一時は県内各地に分散していた住民も、気候が温暖な「浜通り」のいわき市に戻る人が増え、今では2万人以上が、いわき市で避難生活を送っている。
楢葉町では
役場が移るとは、いったい、どういうことを意味するのだろう。いわき明星大学の大学会館にある、楢葉町いわき出張所を訪ね、統括している松本和也参事(58)に話をうかがった。
楢葉町は、その北にある富岡町と並んで、福島第二原発の立地町だ。住民基本台帳による人口は約7800人。福島第一原発の事故によって、全町民が避難した。行き先は会津地方が約900人、いわき市が約5000人、残りの人々が茨城、東京、埼玉、新潟、千葉などの他県である。
役場も避難し、会津美里町に災害対策本部を置いた。しかし、人口では最多のいわき市にも、役場機能は必要だ。そこで役場と災害対策本部の出張所を置いたのが、ここ明星大学の学生会館である。
住民は会津に約250、いわきに808戸できた仮設住宅に移り、いわきでは160戸を追加で建設中だが、それでもまだ足りない。ほかにいわき市で約1050人が、借り上げ住宅に入居している。仮設への申し込みは9月10日で締め切った。
町では全町民が、災害時援助協定を結んでいる会津美里町に避難する予定だったが、廃校や公民館などの受け入れが間に合わず、いわきにも分散して9カ所の避難所に入った。こうして町の2極分散が始まった。
町議会は本会議は美里、委員会は美里と、いわきの交代で開いている。そのたびに、避難している町議も車で移動する。それぞれに宿泊施設はあるが、夜は雑魚寝だ。
仮設や借り上げで、美里よりもいわきが人気があるのは、いわきの仮設の近くには病院やスーパーがあるからだ。それより、故郷に近く、就職先も多いというのが魅力だ。仮設への入居は地区単位ではなく、抽選だった。高齢者や災害弱者らの優先入居などの条件があり、公平を期すうえではやむを得なかったという。
そこで、いわきに入れない人は美里への入居を見送り、次の抽選を待つ、ということが起きた。いわきが追加で仮設をつくり、美里では一部に定員割れが起きるということにもなった。
町では仮設に看護師を配置し、大分県からの支援看護師も週単位で駆けつけ、巡回している。町社会福祉協議会の職員がデイサービスをして、集会所では相談も受け付ける。美里では、週に2便、買い物バス、医療バスを出し、買い物や病院通いの足も提供している。県が仮設に「仮設店舗」をつくり、最近、鮮魚店がふたつ、開店した。
人口の多いいわき市では、中央台北小学校、北中学校を指定し、300数十人の児童生徒が通う。先生もいわき、美里の小学校に籍を移し、そこで教えているという。楢葉南小学校の校長先生は、いわき市の県教育事務所に配属され、市内の転校生の心のケアをしている。他県では、転校していった生徒が現地の生徒から、「放射能がうつる」といわれた話も聞こえてくるという。
町職員110人のうち、80人が美里、30人が、いわきの出張所に配属された。本来の行政サービスは維持できないので、班編成に切り替えた。従来の建設課や産業課は仮設などの対応に回り、下水道課は生活支援などをしている。いわきと美里は車でも1時間45分かかり、往復するのも大変だ。
美里では仮設が余ったため、職員も入居したが、不足したいわきでは町民を優先し、職員は借り上げ住宅に入った。いわき市は避難者に加え、原発の復旧や処理に従事する作業員が大勢流入し、ホテルは満杯状態が続き、借り上げ住宅も需要がふくらんで家賃は高騰している。
借り上げ住宅の補助は4人まで月6万円、5人以上は9万円だが、そもそも家族用の物件が少ない。松本参事も借り上げをようやく探した。ご自宅は原発から14、5キロの場所にあった。8月末に一時帰宅すると、ススキや野草が生い茂り、身長166センチの松本参事の背丈よりも高くなっていた。田んぼの草はその半分ほどあり、まっ平らに緑が波打っていた。
町では、全2900世帯のうち、津波と地震による全壊は50世帯、半壊は10世帯だった。原発による避難で一時補償金のほか赤十字から一世帯あたり35万円、県から5万円の義援金が配られ、第二次配分では赤十字から一人あたり24万5000円、県から一人あたり5万円の配分があった。
仮設や借り上げ住宅をしている世帯には、赤十字からテレビ、冷蔵庫、洗濯機、レンジ、ジャー、ポットの6点セットが配られ、町でも一人あたり200点のポイントを割り振って、町民が掃除機やコタツなどから必要な品を選べるような態勢をとった。
何とか生活の第一歩は踏み出した。嵐のような半年がすぎ、町職員の顔にも落ち着きがみえる。しかし、底知れない打撃を受けたが、いずれ帰る地のある岩手、宮城とは違って、この町には、その希望が定かではない。家や家具はそっくり残っているのに、現実では、また新たな別の生活を興し、暮らしていかねばならない。放射能に汚染された悪夢のような家と、避難先の家とに、心が引き裂かれる二重生活である。
「三陸には家がないが、場所がある。私たちには
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