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「福島」はまだ終わっていない

久田将義 TABLO編集長

3月14日の爆発で破損した3号機の原子炉建屋。骨組みが崩れ無残な姿をさらしていた=2011年11月12日午前11時、福島県大熊町、代表撮影

 先日、福島第一原発(以下イチエフ)の様子が公開され、原発作業員の声も放送された。僕も数カ月に渡ってイチエフで事故以前から働き、放射線を浴びながら復旧作業を行っている作業員たちにインタビューしてきた。

 彼らも、そして僕も思うのが事故直後、連日連夜テレビで放送していた原発ニュースが今はほとんどされていないという事だ。僕がインタビューしている作業員たちは実は相双地区で生まれ育った人たちだ。だから被災地民でもある。彼らは「あの放送は俺らを不安にしただけだべ。当時はバラエティ見せてくれよって思っていました」と一様に言う。

 地震当日、イチエフで働いていたある作業員は「こういう(パニック)映画ありましたよね。俺、ああいう風に死んでいくのかなって思いました」と振り返る。今でも事故当時、放送され続けたACのコマーシャルを見るとあの時の恐怖が思い出されるという。

 「福島」は終わっていない。

 東京にいるとそれが忘られがちで、放射線ニュースだと都内のホットポイント等が取り上げられるが、まずは「福島」ではないのか。彼らのように現場最前線に立ち体を張っている作業員たちの肉声が聞こえてこない。たまに作業員の声が記事になるが事故後イチエフに入った人であり、地元民である作業員たちの言葉を借りれば「たかが一カ月で働いただけで何がわかるべ」という事になる(僕はしかし一カ月だけでも貴重な証言だとは思う)。

 3月11日。誰より早く危険を察知して避難したのは原発作業員だった。11日の夜の時点で「イチエフ爆発するべ。メルトダウンだ」と

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