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裁判結審はオウム事件の最終解決か?

河合幹雄

河合幹雄 桐蔭横浜大学法学部教授(法社会学)

オウム事件の全被告人の裁判が結審した。しかし、これでオウム事件は解決したとは言えないと私は考えている。警察庁長官狙撃事件が未解決で指名手配中のメンバーがまだ見つからないことを言っているのではない。それよりも本質的なところで解決していないという側面を二つあげたい。

 第一は、この事件は、なんといっても宗教的な事象なのだが、そのことについての解答がないということである。学歴が高い若者たちが多数、オウム教団に入信し、多数の犠牲者を出す事件を実行してしまったのはなぜなのか。麻原については、まさに宗教の領域が絡み、考察はむずかしいが、少なくとも追随者たちについて丁寧に検討すべきだった。たとえば、戦争に借り出された兵士が殺人を実行するのと、オウム信

者の殺人とはどれほど違うのであろうか。あれほどのことをしでかすに当たって、つまり、何人もの人の命を奪うことがわかっていて、彼らはなぜ思いとどまれなかったのか。問うべき重要な問題が幾つもあるのに、刑事司法は、彼らを単純にテロ集団扱いしてしまった。

 その結果は、麻原も含めてだが13人の死刑である。これは、オウム信者が殺した人数の約半分とはいえ大量殺人ではないのか。私たちは、この大量殺人を前に、思いとどまれないのであろうか。多数の死刑が正しいと信じる何か強固な信念があるから突き進むのであろうか。裁判で決まったのだからと主張するなら、これは、麻原=教団の命だからということで大量殺人を実行してしまったオウム信者と、死刑執行人とは、どこが異なるのであろうか。私たちも、ある理屈を信じたために大量殺人を犯してしまいそうになっているのではないか。

 少し整理してみよう。それも極論はさけて、現行制度の中で考えて見よう。司法担当者は、手続も含めて法にのっとって裁くしかない。精神病などを想定した心神喪失で無罪、心神耗弱、情状酌量での刑罰の減軽は、確かに無理、林郁夫の自首を認めて減軽が精一杯であろう。個々の事件を裁く中で死刑判決が出てしまったことを強く非難することはできない。そもそも、宗教に関する知見も訓練もない検事も裁判官も、

宗教領域に積極的に係らなかった判断は、ひとつの見識であるのかもしれない。このように裁判の限界を認めるならば、裁判に全ての解決が委ねられているのではない、つまり最終決定ではないと考えてはどうか。オウム事件について、さらに考察と議論を継続し、彼らを大量に処刑するのではなく、たとえば信者の幾人かについては恩赦でもって最終結果としてはどうであろうか。結論については私見に過ぎないことを承

知しているが、少なくとも裁判結審で、この事件の処理は終わっていないと私は考える。

 第二は、この機会を逃せば発言できないということで思い切って述べるのだが、オウム信者だけが検挙され、より犯罪に慣れている者達が検挙されなかったのではないかという疑義がある。狂信的集団にしては、 ・・・ログインして読む
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筆者

河合幹雄

河合幹雄(かわい・みきお) 桐蔭横浜大学法学部教授(法社会学)

1960年、奈良県生まれ。京都大大学院法学研究科で法社会学専攻、博士後期課程認定修了。京都大学法学部助手をへて桐蔭横浜大学へ。法務省矯正局における「矯正処遇に関する政策研究会」委員、警察大学校嘱託教官(特別捜査幹部研修教官)。著書に『安全神話崩壊のパラドックス 治安の法社会学』『日本の殺人』『終身刑の死角』。

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