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「福島」を忘れない

久田将義

久田将義 TABLO編集長

原発作業員の取材を始めてから5か月くらいになる。暑かった福島県いわき市もいまは雪が降るほどだ。僕が取材した彼らは作業員であると同時に被災地民でもある。原発が日常にある街で育ち、原発に入った人間たち。彼らは下請けの下請けの下請けの下請けの……。日給1万5千円から1万3千円だ。「俺らは使い捨てですよ」そう自嘲気味に話す。

 3月11日、午後2時46分、福島第一原発(1F)で何が起きたのか。その後、彼らはどういう行動を取りどんな心境で1Fに戻るまで過ごしたのか。

 地震で大パニックに陥った1F作業員たちは、何とか車で地元相双地区に戻った。その後彼らの行動は様々だ。ある作業員の家族は(一般の人なので)原発の怖さを知らず11日の夜はそのまま自宅で過ごす。しかし、作業員たちは「こんなところにいたら放射線、やばい。早く逃げるべ」と避難を勧める。そしてテレビで避難勧告を受け家族に向かって怒りの矛先を向ける。「ほら、俺の言った通りだべ」。結果、彼らは被曝した。

 それから東京に逃げる者、大阪に逃げる者……。水素爆発後も彼らは原発に戻らなかった。放射線がどれだけ怖いか身をもって知っているからだ。しかし、現在は原発で働いている。どういう心境の変化があったのか。

 一人の作業員が言う。「昼間、地元を車で走ってみたんです。その時のショックと言ったら……。涙は出なかったけど熱くなりました。地元愛とかなかったんですけど」。全く変わり果てた自分たちの町を目のあたりにする。海側は自衛隊が赤い旗が立っている。遺体のある場所だ。自分の家も滅茶苦茶。「その時、やっぱ自分の家がいいね。地元がいいねって思ったんです。そして話し合いました。うちら原発作業員が原発の仕事しないでどうするべ。だから戻ったんです。でも正直怖かったです」。

 1カ月ぶりに1Fに入った彼らは屋根が吹き飛びボロボロの建屋の惨状を見て

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