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記者失格の1万5000キロ

辰濃哲郎

辰濃哲郎 ノンフィクション作家

3・11の東日本大震災が発生して10日ほど経ったころだった。

 震災直後に自家用車で後輩記者とともに現地に赴いた私は、その日、宮城県石巻市内の路上で夜を明かした。零下の寒さの中でも暖房はつけられない。ガソリン不足で、節約のためにエンジンを切らざるを得ないからだ。持参した毛布と布団にくるまって運転席寝ていると、窓はみるみるうちに白く凍てつく。まどろんだと思ったら寒さで目が覚める。

 朝は防災無線の音で目が覚めた。

 「粉ミルクが不足しています」

 避難所で不足している幼児のための粉ミルクの提供を呼び掛けているのだ。

 かつて24年間を過ごした朝日新聞社で、記者のイロハを教わった。その中でも、取材対象者との距離の問題は難題だった。近づきすぎては冷静な目を失ってしまう。こういった被災地でも、金銭や物資を渡すことはご法度だと信じてきた。目の前で救いを求めている人がいても、「取材」という前提を崩してしまった瞬間に、「客観性」を担保できなくなる。

 きっと、この教えが私の判断を鈍らせていただのだと思う。

 その数日前、私が被災地を訪れていることを知っていた敬愛する先輩が、私に電話をよこした。きっとテレビで被災地の様子を見ていたに違いない。涙ぐんでいるのではないか、と思われるような感極まった声だった。

 「取材の合間でもよい。困っている人がいたら、私の代わりに物資を届けてあげてくれないだろうか」

 現地では、粉ミルクだけでない。衣服やガソリン、食糧などあらゆるものが不足していた。だが、私には記者としての仕事がある。朝日時代に培われた本能的な取材対象者との「距離感」が、心のどこかで先輩の言葉を拒絶している。私の葛藤を見透かしたように、同僚記者も何も言わない。

 私たちが被災地入りしたのは、震災から4日後の15日だ。被災地に迷惑をかけないように毛布やコンロ、非常食などあらゆるものを自家用車に積み込んだ。被災地を走りまわり、ガソリンが底をつきそうになったら、被害の小さかった山形県天童市や米沢市まで出て、ガソリンスタンドの列に加わり、一日がかりで満タンにする。スーパーで食糧を買い込み、再び現地に入る。

 石巻市で「粉ミルクが不足しています」という放送を聞いた2日後だった。自分たちの食糧を調達するために、天童市のスーパーに入った。見ると、一番奥のスペースに粉ミルクが山積みされている。この粉ミルクをひと缶、被災地に運んだくらいでは何の役にも立たないだろう。そんなことより被災地の様子を記事にして訴えることの方が、被災者支援につながる。

 いや、このひと缶で、助かる幼児の命があるかもしれない。

 私は食糧を手に並んだレジから抜けて、山積みされた粉ミルクのコーナーに向かっていた。そして4缶を手に取った。

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