河合幹雄(かわい・みきお) 桐蔭横浜大学法学部教授(法社会学)
1960年、奈良県生まれ。京都大大学院法学研究科で法社会学専攻、博士後期課程認定修了。京都大学法学部助手をへて桐蔭横浜大学へ。法務省矯正局における「矯正処遇に関する政策研究会」委員、警察大学校嘱託教官(特別捜査幹部研修教官)。著書に『安全神話崩壊のパラドックス 治安の法社会学』『日本の殺人』『終身刑の死角』。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
2011年は死刑執行がゼロとなるようである。国民の合意形成が不十分ななかでの執行停止は正しい判断であろう。なにしろ、日本人が治安の良さを誇っていた1970年代に比較して、現在の殺人事件の死者数は約半分に減少している。それなのに死刑判決が何倍にも増えているのは、国民が治安が悪化したと勘違いさせられているからであろう。議論を開始するに当たって、犯罪状況と死刑執行自体についての正確な情報提供が必要であると考える。
以下、年内執行ゼロの意味から、死刑について一言したい。年内に死刑執行がなく、年末押し迫って執行されることがこれまであった。本年もそう予測していたが、そもそも、これはなぜだろう。年ごとの統計にゼロと出さないというより、昨年は死刑がゼロだったというニュースを出させないためであろう。
だとすれば、これはいわゆる見せしめのための刑罰であろうか。殺人事件を網羅的に検討すれば、殺人犯たちが死刑を恐れて犯罪を思いとどまるなどということは、およそ期待できないことは間違いない。凶悪犯罪の防止という最も大切なはずの目的に役立たないのに、なぜ死刑執行があるのであろうか。
意識調査を検討してみると、犯罪抑止効果がないことは日本国民も理解しているようである。それにもかかわらず、死刑制度は存置しておきたいという結果が出ている。そもそも、日本においては、凶悪事件に遭う心配はしなくてよい。テレビ新聞の報道に惑わされないで考えて見ればわかる。
私は、犯罪状況について講演で話すとき、聴衆にこう聞いてみることがある。
「皆さんの知り合いのなかで、最近何人殺されましたか? 増えていますか?」
会場には笑いがもれる。日本人の多くは、一生のうちに知人が殺人事件で亡くなる話を聞くことはない。凶悪事件も死刑も現実的な事柄ではないのだ。命が大切なら事故や病気に気をつければよいのだ。
では現実の話でなければ何なのか。儀式のような象徴的なものと考えざるを得ない。人々が、死刑に参加したり、執行のされ方を詳しく知ろうとしてこなかったことからみると、刑罰を加えることよりも、それで安心したい欲求が勝っているように思われる。客観的な安全のためには様々な殺人事件について知りたいところだが、実際には、極めて少数で特異な事件について大量の報道がなされる。これは、人々がわかったつもりになりたい欲望に、報道機関が正直に答えているのであろう。
社会学は、刑罰は秩序感を守るためにあると考えてきた。つまり、人々にとって、死刑は、悪事を働けば厳しい刑罰が待っているという象徴なのだ。日本では、これに安心感の回復と付け加えてよいと思う。換言すれば、死刑が廃止されると、なにか怖いのだ。
以上のような状況を前提に、それにマッチングした制度を考えれば、