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[8]「無明」はまだ続く

宮沢賢治「雨ニモマケズ」

外岡秀俊 ジャーナリスト

 今年ほど、一年が過ぎるのが遅々として感じられた年はなかった。

 仕事が充実しているほど、歳月の歩みは速く感じられるという。だが一日ずつを振り返ってみても、今年ほど日々が変化に富み、中身がずっしりと詰まった年もなかった。ではなぜだろう。

 いうまでもなく、3・11の日付がその前後を鋭く切断し、巨大な逆断層のように、日常に段差が生じたからだ。まるで、今年は「3・11前」と「3・11後」という二つの異質な年を、一つ身で2年分生きたような気がしてくる。「3・11前」は、もうかなり以前に過ぎ、もう再び返ってこない日々のようにすら思えてくる。

 もう一つの理由は、たびたび被災地を訪れるうちに、あまりにも遅い政府の対応に、苛立ちと焦りを覚えたからだったろう。岩手や宮城では大勢の重機が集まってひっきりなしに動き回り、がれきの山を掘り崩していった。人々は避難所から仮設住宅に落ち着き、とりあえずは自分たちの空間を確保した。しかし、復旧はようやく出発点に立ったところであり、復興への道のりはあまりに遠い。

 12月の半ばにかけ、岩手、宮城、福島の3県を訪れた。被災地の現状をご報告して、連載の締めくくりとしたい。

藤原先生との出会い

 盛岡から車で被災地を案内してくださったのは、藤原良雄さんという元中学校の先生だった。今年(2011年)77歳の藤原さんは、釜石で育ち、1952年に高校を卒業して助教になった。釜石市郊外の尾崎白浜の中学校で教えながら、通信教育で教師の資格をとり、その後岩泉町の山間の僻地で、長く教鞭をとった。

 震災後、所在がつかめなくなった知己や、電話でしか話をしていない教え子も数多い。私は藤原先生のお見舞いと激励の旅に、おつきあいをさせていただくことにした。

 道々ハンドルを握りながら、藤原先生は昔の岩手の僻地教育を振り返った。藤原さんの言葉は、「〇〇だね」という語尾が、「〇〇だに」と発音しているように聞こえる。それが、おっとりとした風貌とあいまって、寅さんの映画に登場する笠智衆の「御前さま」を髣髴させる。

 「先生っていうのは、いい職業だに。定年になっても、生徒達が先生、先生って声をかけてくれるものね」

 先生がいい職業なのではなく、藤原さんがいい先生だったのだろう。今も大勢の教え子に慕われるのは、春風駘蕩のお人柄のせいだと思える。

 昭和30年代の岩泉町には、僻地中学校が本分校あわせて70校もあった。少ない分校には2、3人しかおらず、一人の教師が全科目を教えた。藤原さんが教えた分校は町の中心部から歩いて9キロの距離にあった。リュックに米と缶詰、懐中電灯など七つ道具を入れ、長靴で山道を歩いて赴任した。野菜などはなかった。2、3日に一度、酪農家から乳を集めに周ってくる集乳車に頼み、玉ネギ1袋などを、まとめて運んでもらった。

 生徒たちも貧しかった。親たちは牛の所有者から牛を貸してもらい、搾乳で暮らした。これは「牛小作」と呼ぶ。仔牛が生まれると、「牛地主」と折半にした。あるいは炭焼きの焼き子になるが、こちらも山林の地主から米や味噌を現物支給してもらい、炭は地主に納めた。毎日をしのぐのが精一杯で、弁当を持ってこない子が多かった。生徒たちは、毎日数キロの山道を、歩いて通った。習字も道具が買えず、安い西洋紙で代用した。教科書を買う金がなく、岩泉町の本屋に掛売りをしてもらうが、いざ親に請求する段になると、忍びなかったという。

 当時はラジオも新聞もなく、小型の水力発電に頼っていたが、電気をいったん消すと、再びはつかなかった。映写会を催したときは、映写機が過熱するので電気コンロ2台を繋いで電圧を低くし、ようやく上映してことなきをえた。

 当時の初任給は5200円。酒一升が500円、ビールが1瓶220円だった。「せめて週に一度はビールを飲める身分になりたい」と思っていたそうだ。

 こうして長々と藤原先生の思い出話を書き取ったのは、岩手の山間部では、つい最近まで、こうした厳しい生活が長く続いていたことを改めて思い起こしたいからである。

 私は震災から一週間後に東北地方を回り、そのルポを3月末に雑誌「アエラ」に寄稿した。新聞記者として最後になった文章を、こう締めくくった。

 「23日夜、宮古市まで、海岸沿いの夜道をひた走った。前後左右、車のライト以外に、どこにも光はない。横殴りに降る粉雪が、廃墟に積もる瓦礫の山を白紗で覆い、すべては白々としている。これほどの無明を、見たことはなかった。

 明治の三陸大津波の年に生まれ、昭和の三陸津波の年に逝った詩人がいる。後者の災厄の4日後、友人あての葉書きにこう記した。『被害は津波によるもの最も多く海岸は実に悲惨です』。それでも彼、宮沢賢治が残した『雨ニモマケズ』の詩を心の支えに、被災地の人々は、凍てつく無明の夜に耐えている」

 花巻の裕福な質屋に生まれた賢治は、日照りや水害のたびに蓄えを失い、質草を金に換えて暮らしをしのぐ農民の苦境をみて育ったといわれる。おそらく「雨ニモマケズ」にうたわれた情景、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ」という描写は、そのまま農民一人ひとりが背負った重い現実でもあったろう。こうした長い歴史の地層に培われた「東北の思想」は、「数百年に一度」といわれる大災害に対して、その地に住む人々が唯一、信じるに足る価値の源泉だったろう。

 どの町でも私は、被災した人々の我慢強さや、忍耐強いやさしさに打たれた。しかしそれは、「災害にもかかわらず」芽生えたやさしさではなく、災害があってもなくても、長年をかけて身につけてきた「生きる姿勢」なのだろうと今は思う。

宮古では

 藤原さんがかつて教えた岩泉町の山道をたどり、海岸に出て、宮古市の田老地区に向かった。

 かつて威容を誇った日本一の防潮堤は、総延長2・4キロで、「万里の長城」といわれた。海寄りと内寄りの二層構造で、高さは約10メートル。上に立つと、幅も約3メートルあり、遠くまで見通せる。

岩手県がかさ上げする方針を決めた宮古市田老地区の防潮堤=2011年10月9日

 田老地区では、1896年の明治三陸津波で1859人、1933年の昭和三陸津波で911人の犠牲者を出した。

 その昭和三陸の翌年から防潮堤が築かれ、半世紀近くたった1978年に完成した。高台移転よりも、防潮堤で集落を守る、という選択だった。1960年のチリ地震津波では、この防潮堤に守られて犠牲者は出さずにすんだ。田老は津波防災の「先進地」でもあった。

 だが今回の大津波は、いとも簡単にこの防潮堤を乗り越え、集落になだれ込んだ。宮古でも最も多い1609棟が全壊し、59棟が半壊した。

 いま、ガレキはほぼ撤去され、田老地区は更地のようになり、建物の基礎部分だけが集落のあとをとどめるばかりだ。防潮堤から眺めると、今もその地を襲った津波のすさまじさが身に迫ってくる。

 岩手県は10月、これまでの田老の防潮堤を4・7メートルかさ上げし、14・7メートルにする方針を打ち出した。もちろん、盛り土や避難ビル建設など、多重の防護を計るとは思うが、東北大の現地調査で今回の津波高は昭和三陸津波の倍近い16メートルという試算もあり、いまだ不安はつきまとう。

 宮古中心部に行くと、かつてペンキの赤字で「解体OK」と書かれた建物の多くは壊され、被害が大きかった市役所周辺や磯鶏地区では、沿道に更地が目立つ。湾内には、係留された船も見える。以前の町並みを知らない人が見たら、津波被災から「復旧した」と錯覚するかもしれない。しかし、あちこちに空白が目立つ町並みは、地元の人々に大きな「喪失」を感じさせこそすれ、とても「復旧」への足がかりができたとは、思えないだろう。実際、旧営林署など公共の施設は、予算がまだつかず、解体すら始まっていない。

 しばらく行くと、壊れた自動車が山をなしている光景に出くわした。ガレキがようやく、目の前から片付けられたというだけで、復旧はこれからなのだ。

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