2012年03月05日
ツイッターデモの主張はいたってシンプルで、ウェブサイトには、「すべての原子力発電の出来る限り早期の停止と、原発のない社会を求めるデモを行います。このデモは、特定の政党や団体によるものではなく、ツイッターでの個人の呼びかけをきっかけに開催されており、通称「ツイッターデモ」と呼ばれています」と書かれている。
約1100人(主催者発表)が集まった第6回目となる2011年11月5日のデモはとくに印象的だった。
表参道を歩いていると、沿道の反応が温かいことに気づく。これまで数回参加してきたが、やはりそれまでとは何かが違った。手を振ってくる高校生の男の子や外国人の観光客らしき人たち、ルイ・ヴィトンの店員らしき黒服の男女は、困惑なのか、賛同なのか、うっすら笑みを浮かべながら、デモを眺めている。
脱原発デモが街の異物ではなく、見慣れた風景になりつつある。もちろん、最初から“見慣れた風景”ではなかった。それはツイッターデモが毎月、渋谷の街を歩くことで、そして彼らの持つ温かい雰囲気が作りあげてきたものだ。そこにはこうやって少しずつ何かが変わっていくのかもしれないという、微かだが確かな手応えのようなものがあった。
さらに、この日はデモのあとに渋谷のクラブ「SECO」で、「DEMONSTRATION AFTER PARTY」と銘打たれたアフター・パーティが開かれた。その場の、ピースフルな雰囲気はツイッターデモを象徴するものだった。
ツイッターを介して緩やかに組織されたTwitNoNukesが立ち上がる最初のきっかけは、4月5日にツイッターにポスト(注・ツイッターに投稿すること)された次のようなツイートだった。
「もし仮に、ツイッターで人を募って、渋谷辺りで脱原発デモを行うとして、参加したいという方がおられれば、公式RT(注・他のユーザーがポストしたツイートを引き継ぐこと)願います」
このツイートをポストした平野太一(26歳)は、まさか自分がその後、デモの主催者として活動するとは思ってもいなかったと控え目な態度で話し始めた。「最初は、呼びかけというより、アイディアだったんですよ」。
彼がポストすると瞬く間にその情報は広がり、多くのレスポンスが返ってきた。
「友達と飲んでるときに、ポロっと“ツイッターで呼びかけてデモができないかな?”と言ったら、“やってみたら?”と言われたんですよ。それでツイートしたら、その日の晩か次の日までに300回ぐらい公式RTされた。まさかそんなに反響があるとは思わなかったから驚きました。しかも、“いつにします?”というメンション(注・特定のユーザー名を含むツイート)まで送られてきて(笑)。“これはやらないとダメだな”って」
平野は2010年10月に大阪から東京・高円寺に移住し、いまは介護の仕事をしながら、生計を立てている。朴訥とした佇まいと穏やかな語り口からは、彼の実直さがうかがえる。原発事故後にいても立ってもいられなくなった彼は、仕事の合間を見つけて、2011年3月18日から始まった東京電力本社前における抗議行動「東電前アクション」や経産省前で行われた抗議行動に足を運ぶものの、そこである種の“虚しさ”を感じたという。
「休日の霞ヶ関ってほんとに誰もいないんですよ。それらのアクションにはだいたい300人ぐらいの人が来ていたと思うんですけど、肝心の抗議する相手がいない。これは寂しいなと思って。しかも、すっごい寒い日で、いま思い返すと、風邪を引きそうなぐらいだった。家に帰ってきてツイッターを見ると、“渋谷とかで脱原発デモをやんないのかな?”ということを書いている人が何人かいて、自分と同じように思ってる人がいるんだなと」
「素人の乱」が反原発を訴える「原発やめろデモ」の第1回目を高円寺で行うと告知を始めたときも、インターネット上、とくにツイッターでは、「なぜ、高円寺なのか? 渋谷か新宿でやるべきだ」という意見をよく目にした。デモが意思表示の手段であるからには、より多くの人に知ってもらうために大きな街でやるべきだという意見が出るのも当然のことだろう。
平野らが始めたツイッターデモはそういった声にリアクションしたともいえるだろう。これまでTwitNoNukesが呼びかけたデモは、4月30日、5月28日、7月23日、8月27日、9月24日、11月5日、12月17日、1月29日と計8回のデモが行われている。
ツイッターデモと連動して活動しているグループにSAYONARA ATOMという、主に20代から30代のアーティスト集団がいる。彼・彼女らは
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