2012年03月12日
柄谷は「デモとは何か?」という問いに、こう語る。
「私はデモというのは社交だと思っています。かつて福沢諭吉は“society”を“社交”と翻訳したそうですが、いまは『社会』という訳語が定着しています。しかし、社交というほうが動的な感じがする。その意味で、デモも社会参加というよりも、社交だと考えた方がいい。実際、フランス人でもドイツ人でも、デモを社交だと思っているふしがありますよ。“土曜日にデモがあるよ”“じゃあ、そこで会おうか”と。そのように、デモとはまず人に会う場であり社交なんですよ」
デモは社交。ややもすれば堅苦しいイメージがつきまとうデモという言葉に鮮やかに違う意味を与えた柄谷に倣えば、集会は宴会だろうか。
それでいいのかもしれない。そのような和やかさや愉しさを社会運動に持ち込むことができたなら、あるいはこの国は本当に変われるのではないか。そして彼はこうも語った。311以降の反原発運動の流れを“新しい社会運動”と評価する向きについて、「確かに新しいけれども、それは資本主義的な意味ではありません」と前置きして、現在の反原発デモの“新しさ”についてこう分析する。
「いま日本で起きている反原発運動と似たような自然発生的な大衆運動は、あちこちで起きています。エジプト革命も同じだと思います。しかしそれらは決して“新しい”ものではない。文化人類学者で活動家のデヴィッド・グレーバーが『アナーキスト人類学のための断章』(高祖岩三郎訳、以文社)のなかでこう書いています。
彼がニューヨークのDirect Action Networkの評議会に出てみると、マダガスカルの氏族社会をリサーチしていたときの、彼らの会議とそっくりだったと。マダガスカルの氏族社会の話し合いには、もちろん党幹部などはいない。Direct Action Networkの評議会でも皆、対等にがんがん意見を言い合う。そして、意見を言った人間が責任を持って行動を起こす。その人が信用をなくしたらリーダーではなくなる。
直接民主主義は実に古い起源を持っていて、廃れることもありません。廃れたと思っても、また戻ってくる。いまの自然発生的な大衆運動は60年代末の大衆運動の続きに見えるかもしれませんが、60年代末の運動も過去から回帰してきたものだったのです。自然発生的な大衆運動は常に新しく、そして古いのです」
常に新しく、また古い大衆運動。歴史的な視座のなかでこのように反原発運動を位置づけた柄谷に対し、小熊は、まさにいま現在の反原発運動に漂う空気をこう分析する。
「日本は世代を超えて共有している宗教がない国です。代わりに、ある年齢までの人なら太平洋戦争の記憶が共通神話としてあった。それに比べたらオウムや阪神大震災はそこまでの体験にはならなかったし、311もそれ単独ではならないと思います。ただ、もう原発の問題は、原発単独ではなくなった。
事故のあとから、東電は
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