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不思議な肩書き「大関」の魅力と悲哀と

倉沢鉄也

倉沢鉄也 日鉄総研研究主幹

職業相撲の興行実施記録が残っているのは江戸時代中期(18世紀前半)で、出場者の名前と序列とスポンサー(藩の名前)を掲示する目的で「番付」なるものが作成された。それ以降初めて、6大関が番付に名を連ねるという。それはそれで、良くも悪くも現代大相撲の話題として取り上げられてもらえればよいのではないかと思う。

 そもそも社会的には(おそらくほとんどの力士たち自身も)、スポーツの一分野に「直近の最優秀成績者」以外の肩書が選手の身分や振る舞いすら規定するというルール自体が不思議に見える人も多いと思われるが、その歴史的・文化的説明(かつて大相撲番付最上位は大関であって……など)を本稿に記す意義は薄い。そこは筆者が語るまでもなく様々な識者や市井研究者の論考に任せるが、現代大相撲においても間違いなく言えることは、横綱と大関という特権階級(他の力士はすべて毎場所の成績で肩書が変動する)の肩書は、責任として直近の成績である程度の適格チェックがされつつも、昇格後でもなしえないような非常に優秀な成績を、昇格以前に残すことのできた人への一種の功績尊称(ごほうび)であり、昇格時以上の成績を残すことを適格チェックの要因とされていない。皮肉を込めれば世の中の「社長」「部長」「課長」とあまり変わらない性質のものであり、そういう意味でも大相撲は日本社会の映し鏡である。

 実際に、先場所までの1横綱5大関を含む過去の横綱・大関を見ても、昇進直前の成績と同等以上の成績を、昇進後に1回以上でも残せた横綱・大関は、「全盛期はそこそこ強かった横綱・大関」としてみなさんの記憶に残っていると思われる。そもそも昇進基準のあやふやさがことさらに取り上げられること自体が純粋なスポーツ競技でないことの証拠でもあるが、

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