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本土はいつまで沖縄を「捨て石」にするのか

大矢雅弘

大矢雅弘 ライター

戦後の27年間、米国の施政下に置かれた沖縄が日本に復帰して15日でまる40年を迎える。沖縄の人々にとっては復帰の内実を改めて問い直す日でもある。

 沖縄が祖国に復帰する半年前の1971年11月、当時の住民側の自治機構である琉球政府は、沖縄返還協定が基地の固定化につながることなどを危ぶみ、沖縄の望ましい未来像を日本政府に訴えようと建議書をまとめた。

 建議書の正式名称は「復帰措置に関する建議書」。琉球政府の若手人材や大学の研究者、弁護士らを動員して、基地や開発のあり方、厚生、労働、教育、文化まで幅広く県民の要望を網羅した渾身の建議書だ。

 琉球政府の屋良朝苗行政主席が書いた、建議書の前文にはこう記されている。

 「県民が復帰を願った心情には、国の平和憲法の下で、基本的人権を願望していたからに他なりません。沖縄は余りにも、国家権力や基地権力の犠牲となり、手段となって利用され過ぎました。復帰という一大転換期に当たって、このような地位からも、沖縄は脱却していかねければなりません。日米共同声明に基礎を置く沖縄の返還協定、沖縄の復帰準備として閣議決定されている、一部国内法関連法案には、県民の要求が十分に反映されていない憾(うら)みがあります。そこで、私は沖縄問題の重要な段階において、将来の歴史に悔いを残さないため、また歴史の証言者として、沖縄県民の要求や考え方などを、ここに集約し、あえて建議するものであります」

 だが、この建議書を携えた屋良主席が東京に到着する直前、国会の衆院特別委員会で沖縄返還協定が強行採決された。建議書は国会審議の場に付されることなく、あっさりと葬り去られた。

 当時、琉球政府の復帰対策室の調査官として建議書の作成にかかわった平良亀之助さん(75)は「沖縄の基地問題は復帰当時と何も変わっていないというのが実感です。建議書の中身はいまも十分に正当性がある。建議書は何ら修正する必要もなく、沖縄が本土並みといえる状況にならない限り、いつまでも有効だと私は確信しています」という。

 復帰とは何だったのか。自民から民主への政権交代以降、米軍普天間飛行場の移設問題が解決に向かうどころか、かえって混迷が深まるにつれ、沖縄の人々の疑念は一段と強まったに違いない。「なぜ、沖縄だけが、いつまでも基地の過重負担を背負わなければならないのか」。普天間問題を通して、沖縄に対する本土側の視線の冷たさを痛感させられたことだろう。

 沖縄の人々がこれまで、米軍基地について公然と「県外に移せ」ということはなかった。自らの痛みを他人に担わせるのはしのびないからだ。だが、

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