河合幹雄
2012年07月09日
この事件については、郷原信郎元検事が、ブログ「『社会的孤立』を深める検察~最高検報告書は完全に破綻している」等において、既に詳細な検討を示している。その論旨には完全に同意できる。検察は、小沢を不起訴処分とした理由を説明する役割を果たすかわりに、検察審査会が起訴するように画策した。その手段として田代検事が虚偽の事実を故意に捜査報告書に記入した。そして、田代の上司も、そのような方針を支持していたことは明白である。最高検の報告書は、まともな根拠が、ひとつもなく結論ありきの作文である。残念だが「検察が言うなら、カラスだって白いのだ」レベルの印象を受けた。
詳細な論点は郷原氏のブログにまかせて、私は、より大きな視点からこの件について論じたい。すなわち、特捜の社会的役割、あるいは存在意義についてである。収賄罪の取締りという側面は、小沢一郎に関しては当たらない。ダム建設に絡む談合問題もあるが、企業からの政治献金が焦点であろう。冷戦期には、資本主義体制を堅持するために企業から保守政党に多額の献金がされることはヨーロッパ西側諸国でも同様で
あった。冷戦が終結すると、政治体制を壊さないかという遠慮の必要がなくなり、多数の政治家が摘発されるとともに、政治資金を政党交付金として税金から手当てするように改革された。日本も、大筋この路線できているとすれば、政治家への不正な献金に対しては厳しく取締る必要があることになる。この理屈が、小沢に対する厳しい処置の正当化根拠であろう。
ところが、日本にはというよりも、検察に固有の文脈が
有料会員の方はログインページに進み、デジタル版のIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞社の言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください